石火矢
姓 | 読み方 |
---|---|
石火矢 | せっかや |
石火矢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/08 02:21 UTC 版)
石火矢(いしびや)とは、室町時代末期に伝来した大砲の一種。元来弩の一種を指した語であったが、同様に火薬を用い、石を弾丸とする「stein buchse」の訳語としてこの名が使われた。フランキ(仏朗機・仏郎機・仏狼機)、ハラカン(破羅漢)、国崩ともいう。
但し、江戸時代では棒火矢(ぼうびや)と呼ばれる矢状の飛翔物を大筒で発射する術が登場するにおよび、それと区別する意味で、単に球状の金属弾を打つ砲を石火矢ということが多いため、江戸時代の記録に「石火矢」とあってもフランキを指すとは限らない。
概要
青銅を用いた鋳造製で、砲尾に空けられた穴から直接点火して発射する。最大の特徴は砲身に火薬や弾丸を直接こめるのではなく、子砲とよばれる火薬と弾丸を装填したものが別体式になっている点で、いわばカートリッジのような構造である。これを子母砲という。これにより予め子砲を複数用意しておけば短時間で連射が可能となる。この形式はヨーロッパでは当初艦載砲として好まれた。
融点温度が低い青銅鋳造製のため比較的製造は容易であるが、主原料の銅は鉄に比べて高価である。弱点は本体と子砲の間から発射ガスが噴出する事で、そのため前装式の砲に比べて威力が劣る事であった。後には鉄砲の製造技術を用いて鍛造される鉄製の大筒や和製大砲などの前装式に取って代わられる事になる。
石火矢の初見は大友宗麟が天正年間(4年)に南蛮人から購入した子母砲で、“国崩し”と名付けられ臼杵城の戦いでは攻め寄せた島津軍を撃退した。安土桃山時代の後期には国内で製造される様になり、文禄・慶長の役や関ヶ原の戦い、大坂の陣などで用いられた。因みに江戸初期までは大口径(8センチ以上)の大砲の事は全て石火矢と呼んでいた様で、国史大辞典によれば1639年、肥前国平戸で作られ、江戸幕府へ贈呈された臼砲や、1841年に高島秋帆が作った大砲が「石火矢」と称されていた。
現存砲としては靖国神社遊就館に、口径95mm 全長2,800mmの仏郎機砲が所蔵されている。
架空
日本映画『もののけ姫』には石火矢衆なる集団が登場するが、彼らが用いるのは明で発明された火槍(ハンドカノンの一種)の改造品で、本項の石火矢とは異なるものの、劇中でこれをさらに改造し、後装式にした物をエボシ御前が用い、鍛造にあたった鍛冶職人から「国崩をなさる」「国崩に相応しい」と言われるシーンが登場する。ただし、作中での石火矢、火薬の威力は、実際のものと比べ過度な表現がされている。
関連項目
石火矢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 02:50 UTC 版)
劇中の石火矢は火銃が発想の源。中国、ヨーロッパのハンドカノンをエボシが改良した石火矢は少し火縄銃のようになっているが、まだ付け火のような棒で火を付けており、火縄銃のようにはいかない。火縄は硝酸を木綿の組み紐に染み込ませてあるもので、火を点けると灯っていき、ゆっくり燃える。それを瞬間的に吹くと、また少し火勢が強くなる。よって火縄銃を撃つ時は、構えてから息を急に吹き掛け、火縄を挟み込み、火蓋を開けて引き金を引くと火縄挟みが落ち、弾が発射される。その段階に到達していないため、後装になっている。弾と火薬が入っているものをそのまま入れて撃つことにより、先から弾を込めなくて済むようになっている。後装は古い大砲にあったものである。弾丸が入った部品に火薬を入れ、砲身に入れる。そして木の楔を打ち込み、点火して撃ち、楔を抜いてこれを引き出し、次弾を装填する。 日本の史実では、鉄砲は南蛮貿易でポルトガルから種子島に伝来したものが発祥(鉄砲伝来)であるとされるが、劇中では中国の明王朝が由来とされる。 通常の火縄銃のライフル銃形態 (エボシがシシ神の首切断で使用、タタラ場から猩々を撃退する攻撃で使用など) だけではなく、大口径で両手持ちの長い柄を持つバズーカ砲形態 (山犬モロ一族に牛飼いが襲われた際の迎撃で使用、地侍との戦で使用など) や火炎放射器形態 (ナゴの守退治で森や猪神たちを焼き払う焼夷弾用途で使用) など、様々な形態が存在する。
※この「石火矢」の解説は、「もののけ姫」の解説の一部です。
「石火矢」を含む「もののけ姫」の記事については、「もののけ姫」の概要を参照ください。
石火矢と同じ種類の言葉
- 石火矢のページへのリンク