豊前の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 18:52 UTC 版)
秀吉は、赤間関での秀長との軍議のあと、そこから船で九州に渡って筑前へと向かった。3月28日、小倉城に到着し、翌29日には豊前馬ヶ岳(行橋市大谷)まで進軍し、島津方の秋月種実が本拠とする筑前古処山城(福岡県朝倉市秋月)・豊前岩石城(福岡県田川郡添田町枡田)を攻めることとなった。 3月29日の軍議では、秀吉は岩石城堅固とみて、豊臣秀勝・蒲生氏郷・前田利長らを押さえとして留め、細川忠興・中川秀政・堀秀政を古処山城攻めにあてようとした。しかし、氏郷・利長は岩石城攻めを主張し、みずから攻城担当をかって出たので、秀吉は豊臣秀勝を大将に先鋒の蒲生氏郷・前田利長隊に命じて岩石城を攻撃させた。戦いは4月1日にはじまり、蒲生軍が大手口から、前田軍が搦手口から岩石城を力攻めし、一日で攻略した。城兵3,000のうち約400が討死するという激しい戦闘であった。 秋月種実は、この戦闘のようすを筑前益富城(福岡県嘉麻市大隈)から窺っていたが、敗色濃厚とみて益富城を破却して放棄、兵を集中させるため本拠の古処山城に撤退した。秀吉は、古処山城攻めに5万の軍勢を送り込み、夜中に農民に松明を持たせて周囲を威嚇、さらに、翌日には秋月方が破却したはずの益富城の城壁を奉書紙を用いて1日で改修したように見せかけて、秋月方の戦意を喪失させることに成功した。4月3日、秋月種実は剃髪し、子の秋月種長とともに降伏した。このとき種実は、茶器「楢柴肩衝」と「国俊の刀」および娘竜子(後、城井朝房正室)を秀吉に差し出した。 岩石城が1日で陥落し、秋月種実が3日にして降伏したことは、抜群の宣伝効果をともなって戦況に決定的な影響をあたえることとなった。これ以降、それまで秀吉に敵対の構えを示していた島津方の在地勢力は戦わずして続々と秀吉に臣従した。事前の黒田孝高の地ならしが功を奏したとはいえ、想像を超えた秀吉の大軍に殆どの武将は強烈な印象を受け、戦意を喪失してしまったものと考えられる。 4月10日、秀吉は筑後高良山、16日には肥後隈本(熊本県熊本市)、19日には肥後八代(熊本県八代市)に到着した。この時、肥前の龍造寺氏は家臣の鍋島直茂が秀吉と早くから内通していたこともあって豊臣軍に帰参した。また島原方面では、有馬晴信が秀吉方となった。 秀吉の大軍の到来に対し、高田(八代市高田)に在陣していた島津忠辰はこれを放棄して薩摩国の出水(鹿児島県出水市)にまで撤退した。
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