再起、赤松の筆頭宿老に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/25 07:56 UTC 版)
しばらく雌伏の時が続くが詮久が吉田郡山城の戦いの頃に播磨の駐留軍を退くと天文11年(1542年)に幕府の助力を得て晴政と共に播磨に復帰。天文13年(1544年)ころまでに播磨・備前の両国を回復する事に成功した。ここに至るまでの過程で政宗は赤松家臣団を総括的に指揮する立場を占め、これ以降政宗は晴政の筆頭宿老の座に就き、晴政の奉行人と連署で赤松氏の命令を伝える奉書を発給するなどした。また、さらに独自に備前西部の松田氏、税所氏らと縁組し室津の室山城を拠点として備前・播磨での勢力をさらに強め赤松の家臣の枠から抜けていく。
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