再起、処刑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/02 06:46 UTC 版)
「ジェイムズ・グラハム (初代モントローズ侯爵)」の記事における「再起、処刑」の解説
亡命してからは行く先々で英雄として歓迎され、大陸を転々とした末にオランダのハーグでチャールズ王太子(後のチャールズ2世)に迎えられて他の王党派と合流した。1649年1月30日にチャールズ1世が処刑されると悲憤のあまり議会派への憎悪を込めた短詩を書いている。チャールズ1世処刑はスコットランドの大部分で反発を引き起こし、かつて敵であったアーガイル侯・リーヴェン伯・レズリーら盟約派も王党派と手を組み、チャールズ2世の即位を承認しイングランド共和国打倒を目指した。 だが、盟約派は国教会主義の放棄とイングランド・スコットランド・アイルランドを含む長老派教会の受け入れおよびモントローズ侯ら王党派の排除をチャールズ2世に迫り、後ろ盾がないチャールズ2世は屈して条件を受け入れた。翌1650年にオークニー諸島で挙兵したモントローズ侯はチャールズ2世のこの裏切りにあって孤立し、4月27日のカービスデイルの戦い(英語版)で再びレズリー率いる盟約軍の奇襲を受けて敗走、オークニー諸島へ戻る途中で捕えられ、馬上に括り付けられ見世物にされる屈辱を強いられた。そして5月21日にエディンバラでアーガイル侯によって処刑され、遺体は各地にばらばらに分散された。
※この「再起、処刑」の解説は、「ジェイムズ・グラハム (初代モントローズ侯爵)」の解説の一部です。
「再起、処刑」を含む「ジェイムズ・グラハム (初代モントローズ侯爵)」の記事については、「ジェイムズ・グラハム (初代モントローズ侯爵)」の概要を参照ください。
- 再起、処刑のページへのリンク