再起ならず
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/28 13:57 UTC 版)
陸栄廷はそれでも広東支配をあきらめず、北京政府の支援を受けて広東への再進攻を画策した。しかし1921年(民国10年)6月から、孫文の「援桂」の指示を受けた陳炯明が粤軍を率いて広西省へ逆進攻してくる。7月に、陸の腹心である広西辺防軍第2路総司令沈鴻英が、孫文陣営への寝返りを宣言する。ついに陸は南寧で下野を宣言し、9月末には最後の拠点竜州も喪失し、上海へ逃走した。 その後、陳炯明が孫文と決裂した間隙を突く形で、1923年(民国12年)11月、陸栄廷は北京政府から広西全省善後督弁に任命されて南寧入りし、再び広西省の統治者となった。しかし、省内を完全掌握した状況にはなく、沈鴻英の勢力と李宗仁・白崇禧・黄紹竑率いる新広西派(新桂系)とが陸に対抗していた。 この3勢力鼎立の中で、最強の陸栄廷に対抗するため、沈鴻英と新広西派が事実上の連合を形成する。1924年(民国13年)4月、桂林に進軍してきた陸を沈が包囲・攻撃した。その包囲戦の間の6月、新広西派は手薄となった南寧を占領し、陸はさらに追い込まれてしまう。8月、陸は桂林を棄てて全州に退却し、桂林は沈によって占領されてしまった。そして9月、沈の追撃を受けて全州も失い、広西省から駆逐された陸は湖南省永州に逃げ込んだ。結局10月9日、陸は永州で下野を宣言したのである。 以後、陸栄廷は政界に返り咲くことなく、1928年(民国17年)11月6日、上海で死去した。享年70(満69歳)。
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