再起と敗北を重ねてとは? わかりやすく解説

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再起と敗北を重ねて

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 16:52 UTC 版)

馬超」の記事における「再起と敗北を重ねて」の解説

建安17年212年5月馬超反乱連座する形で父と一族200人あまりが処刑された。馬超羌族の兵を集めて上で蜂起し、郡や県のほとんどが馬超呼応した馬超は冀城を攻めると。涼州刺史韋康抵抗すること8カ月講和求めて開城した。馬超入城すると韋康らを援軍来ていた張魯将軍楊昂処刑させたという(『三国志』魏志楊阜伝」)。 冀城を根城にして同州の他の城を味方につけ、自らを征西将軍并州牧・涼州総督称し救援にやってきた夏侯淵撃破し氐族千万・阿貴らを味方につけてその勢力盛り返した『三国志』魏志武帝紀」)。 9月降伏していた楊阜・姜叙・趙昂らが鹵城において反旗を翻した馬超がこれを鎮圧向かったところ、これに呼応した衛寛らが冀城を占拠し門を閉じて馬超妻子を斬った。馬超はこれに対して姜叙の駐屯していた歴城攻撃して姜叙の母と子を斬り、趙昂とその妻の王異立て籠もる祁山包囲したものの援軍到来したため、攻略諦め人質としていた二人の息子の趙月を斬った。馬超楊阜戦い重傷を負わせ、7人の宗族を斬ったが、遂に漢中張魯頼って落ち延びていったその後張魯に兵を借り失地回復試みたが、韋康旧臣趙昂とその妻の王異抵抗遭い夏侯淵張郃らが援軍に来たので、勝利得られなかった(『三国志』魏志楊阜伝」が引く『列女伝』、「夏侯淵伝」及び「張郃伝」)。『典略によれば馬超何度も張魯に兵を借りて涼州取ろうとしたが失敗した。やがて張魯配下楊白らは、馬超能力非難するようになったという。馬超の方も張魯に不満を抱き内心鬱々とするようになった

※この「再起と敗北を重ねて」の解説は、「馬超」の解説の一部です。
「再起と敗北を重ねて」を含む「馬超」の記事については、「馬超」の概要を参照ください。

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