再起と敗北を重ねて
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建安17年(212年)5月、馬超の反乱に連座する形で父と一族200人あまりが処刑された。馬超は羌族の兵を集めて隴上で蜂起し、郡や県のほとんどが馬超に呼応した。馬超は冀城を攻めると。涼州刺史の韋康は抵抗すること8カ月、講和を求めて開城した。馬超は入城すると韋康らを援軍に来ていた張魯の将軍の楊昂に処刑させたという(『三国志』魏志「楊阜伝」)。 冀城を根城にして同州の他の城を味方につけ、自らを征西将軍・并州牧・涼州総督と称し、救援にやってきた夏侯淵を撃破し、氐族の千万・阿貴らを味方につけてその勢力を盛り返した(『三国志』魏志「武帝紀」)。 9月、降伏していた楊阜・姜叙・趙昂らが鹵城において反旗を翻した。馬超がこれを鎮圧に向かったところ、これに呼応した衛寛らが冀城を占拠し門を閉じて馬超の妻子を斬った。馬超はこれに対して姜叙の駐屯していた歴城に攻撃して姜叙の母と子を斬り、趙昂とその妻の王異が立て籠もる祁山を包囲したものの援軍が到来したため、攻略を諦め人質としていた二人の息子の趙月を斬った。馬超は楊阜と戦い重傷を負わせ、7人の宗族を斬ったが、遂には漢中の張魯を頼って落ち延びていった。 その後、張魯に兵を借り失地回復を試みたが、韋康の旧臣の趙昂とその妻の王異の抵抗に遭い、夏侯淵・張郃らが援軍に来たので、勝利は得られなかった(『三国志』魏志「楊阜伝」が引く『列女伝』、「夏侯淵伝」及び「張郃伝」)。『典略』によれば、馬超は何度も張魯に兵を借りて、涼州を取ろうとしたが失敗した。やがて張魯配下の楊白らは、馬超の能力を非難するようになったという。馬超の方も張魯に不満を抱き、内心鬱々とするようになった。
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