ナレーンドラ・デーヴァ王の王政復古
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「リッチャヴィ朝」の記事における「ナレーンドラ・デーヴァ王の王政復古」の解説
「玄奘三蔵」および「大唐西域記」も参照 父、ウダヤ・デーヴァ王を叔父ドルヴァ・デーヴァ王とジシュヌ・グプタに殺害されたナレーンドラ・デーヴァ(Narendradeva)はチベット(吐蕃)に追放されていた。当時のチベットは名君として知られるソンツェン・ガンポ王の時代であった。ナレーンドラはソンツェン・ガンポの家臣として仕え、雌伏の時代を過ごした。折から633年ジシュヌ・グプタが没し、その子ヴィシュヌ・グプタ(Viṣṇugupta)が跡を継いだ。ヴィシュヌははじめ単独統治を行ったが、後にビーマールジュナ・デーヴァ王との共同統治になったところから見て、政治的に無力であったと考えられる。しかもビーマールジュナ・デーヴァ王は嫡流ではなく、宗教的事業にのめりこみ、民心を失っていた。 ナレーンドラ王子はソンツェン・ガンポ王の助けを得て、チベットから軍を率いてネパールに攻め戻り、ビーマールジュナ・デーヴァ王とヴィシュヌ・グプタの軍を撃破し、王位に就いた。カトマンズ盆地の有力な大集落はこぞってナレーンドラを支持した。 ナレーンドラ・デーヴァ王(Narendradeva、在位643年頃-679年頃)は36年間専制君主としてネパールに君臨した。当時、軍事力は充実していた。647年、唐の使節・王玄策が訪印中に豪族アルジュナ(中国語版)に捕らえられたときは、チベット軍1200人、ネパール軍7000騎でインドに侵入し、アルジュナを捕らえ、王玄策を救出した。 ナレーンドラは即位後数年はチベットの傘下にあったと考えられるが、ソンツェン・ガンポ王が没した649年以降は実質的にも独立国となった可能性が高い。というのは、チベット国内で反乱が起きたり、唐軍と激戦を行ったりして国内が不安定だったからである。 内政面では「内坐所」の権限を拡大し、「最高坐所」とし、専任の大臣を置いた。また、パーンチャーリーを利用して地方自治権を拡大した。経済的にも繁栄し、パドラ・アディヴァーサ宮殿を造営した。 この時代、集落が次第に大規模化し、都市的になってきた。また、そうした大集落では交易が盛んに行われ、商業が発展した。そうした集落には石製水道が作られ、また流通を促進するため道路の整備も行われた。 王は2回唐に朝貢しているが、唐側はネパールを吐蕃の属国と見ていた。 ネパールは北インドにとって脅威となっており、ナレーンドラの王子シヴァ・デーヴァにはマガダ国王の孫娘を嫁に迎える。
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