アンリ3世の暗殺(1589年)
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「ユグノー戦争」の記事における「アンリ3世の暗殺(1589年)」の解説
ギーズ公亡き後、弟のマイエンヌ公シャルルがカトリック同盟の新たな首領になった。同盟は様々な偽名を使って国王を中傷するパンフレットを発行し始め、パリ大学はアンリ3世を退けることは必要であり、正義であると宣言する。これにより多くの市民にとって王殺しに対する道義的障害がなくなった。 1589年8月1日、ユグノー軍とともにパリを攻撃すべくサン=クルーに滞在していたアンリ3世は、ドミニコ会修道士ジャック・クレマンとの謁見中に襲われ、ナイフで脾臓を突き刺された。クレマンはその場で殺され、何者かの指示があったか否かは語らなかった。アンリ3世は死の床へナバラ王アンリを呼び、国政運営のためにカトリックへ改宗するよう懇願し、もしもこれを拒否すれば酷い戦争が続くだろうと訴えかけた。サリカ法に則り、アンリ3世はナバラ王アンリを王位継承者に指名する。翌日未明にアンリ3世が死去し、ヴァロワ朝は断絶した。
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