アンリ3世の即位と子供たちとの確執
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「カトリーヌ・ド・メディシス」の記事における「アンリ3世の即位と子供たちとの確執」の解説
サン・バルテルミの虐殺の2年後、カトリーヌは23歳のシャルル9世の死という新たな危機に直面した。その最後の言葉は「ああ、母上…」であった。王位継承者である弟アンジュー公がこの前年にポーランド・リトアニア共和国の国王に選出されて不在であったため、シャルル9世は死去の前日にカトリーヌを摂政に指名した。しかし、わずか3か月前にヴァヴェル大聖堂で戴冠式を挙行していたアンリは、フランス王になるためポーランド王位を放棄してフランスへ帰国した。カトリーヌはアンリにこうと書き送っている。「私はこのような出来事と彼(シャルル9世)が今際に示してくれた愛情を目にして悲歎に暮れています…私の唯一の慰みは(これはあなたの王国が必要とすることでもあります)すぐにでもあなたと会うことと、あなたの健康です。もしも、あなたを失うようなことがあったなら、私は生きたまま、あなたと埋葬されるつもりです。」。 アンリ3世はカトリーヌのお気に入りの息子だった。兄たちと異なり、アンリ3世は成人男性として即位している。肝臓が弱く、慢性疲労に悩んではいたものの、彼は比較的健康でもあった。しかし、政務に対する関心は気まぐれなものであった。彼はその人生の最後の数週間前まで、カトリーヌや彼女の顧問官たちに依存している。彼はしばしば国事から隠れて巡礼や鞭打ち苦行といった敬神行為に熱中した。 1575年2月、アンリ3世は戴冠式の2日後にルイーズ・ド・ロレーヌ=ヴォーデモンと結婚し、その選択によって、外国の王女と政略結婚をさせようとしていたカトリーヌの計画は頓挫した。この頃、アンリ3世には子を産ませる能力がないとの噂が広まっていた。教皇使節(英語版)サルヴィアーティは「今後、子が生まれると想像することは難しいです…医師や彼をよく知る者たちは彼は極端に虚弱であり、そう長くは生きられない言っています」と述べている。時が過ぎ、結婚による子が生まれる望みが薄れると、「ムッシュー」(Monsieur)の綽名で知られるカトリーヌの末子アランソン公フランソワが王位継承者の如く振る舞い、しばしば内戦による無秩序(宗教対立と同時に貴族間の闘争と化しつつあった)を助長するようになった。彼女はフランソワを帰順させるために自らのあらゆる権力を用いた。ある機会(1578年3月)には、彼女は6時間もかけて彼の破滅的な行為の危険性について教え諭している。 1576年にフランソワはアンリ3世の王位を脅かす行動を起こしており、彼はプロテスタント諸侯と同盟をして王室に敵対した。同年5月6日、カトリーヌはほとんど全てのユグノーの要求を受け入れたボーリュー勅令(英語版)を発した。この協定はフランソワが王室に強要したものと見なされ、「王弟殿下の和議」(paix de Monsieur)の名称で知られる。その後、フランソワはネーデルラントに介入するが、惨敗を喫して彼の軍隊は虐殺されてしまい、それからほどない1584年6月に結核のため死去した。その翌日、カトリーヌは「私は全てを有する神の御意志に従わねばならないと知ってはいますが、こんなにも多くの人々が私より早く死んでしまい、とても惨めな気持ちです」と書き記している。最年少の息子の死はカトリーヌの王朝構想の破局であった。男子の王位のみを認めるサリカ法に基づき、今やユグノーのナバラ王アンリがフランス王位の推定継承権者となった。ナバラ王アンリは1576年に宮廷からの脱走に成功すると、プロテスタントに再改宗してユグノー陣営の盟主となっていた。 アラソン公フランソワ(左)とマルグリット・ド・ヴァロワ(右) 少なくともカトリーヌは末娘マルグリットとナバラ王とを結婚させる予防措置を講じてはいた。ところが、マルグリットはフランソワと同様にカトリーヌにとっての悩みの種になっており、1582年に彼女は一人でフランス宮廷に戻ってきていた。カトリーヌはマルグリットが愛人をつくっていると知り、金切り声をあげた。カトリーヌはポンポンヌ・ド・ベリエーヴル(英語版)をナバラへ派遣してマルグリットの帰国を手配させている。1585年、マルグリットは再びナバラから逃げ出した。彼女は領地のアジャンに引き籠り、母に金銭を乞うた。カトリーヌは「彼女のテーブルに食事を置く」に十分な金銭を送っただけだった。カルラ城に移ったマルグリットはドゥ・ビアッキ(d'Aubiac)を愛人にした。カトリーヌはアンリ3世にマルグリットが再び自分たちに恥をかかせる前に行動を起こすよう求めた。1586年10月、マルグリットはユッソン城(英語版)に幽閉され、愛人のドゥ・ビアッキは処刑された(カトリーヌはマルグリットの面前で殺すよう命じたが実行はされなかった)。カトリーヌはマルグリットを彼女の遺言から切り離し、二度と会うことはなかった。 カトリーヌはアンリ3世をフランソワ2世やシャルル9世のように制御することはできなかった。政府における彼女の役割は、行政長官か放浪する外交官のようになった。彼女は王国内を広く旅し、国王の権威を守らせ戦争を阻止しようと努めた。1578年に彼女は南フランスを鎮撫する役目を引き受けた。59歳の彼女は南フランスを巡ってユグノーの指導者たちと会談するための、18か月にわたる旅に出立した。この努力により、カトリーヌはフランスの人々から新たな尊敬を集めた。1579年、パリへの帰還に際し、彼女は市外で高等法院や群衆から歓迎を受けている。ヴェネツィア大使ジェロラモ・リポマンノは「彼女は手に負えないフランス人を飼いならし、統治する不屈の母后だ。今や彼らは彼女の勲功と統一への関心を認めており、彼らはもっと早く彼女を評価しなかったことを残念がっている」と書き記している。だが、彼女は幻想など抱いてはいなかった。同年11月25日、彼女は国王にこう書き送っている。「あなたは大規模な反乱を目前にしています。そうではないと言う者たちはうそつきです。」
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