アンリ3世の即位と子供たちとの確執とは? わかりやすく解説

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アンリ3世の即位と子供たちとの確執

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/10 14:01 UTC 版)

カトリーヌ・ド・メディシス」の記事における「アンリ3世の即位と子供たちとの確執」の解説

サン・バルテルミの虐殺2年後カトリーヌ23歳シャルル9世の死という新たな危機直面したその最後言葉は「ああ、母上…」であった王位継承者である弟アンジュー公この前年にポーランド・リトアニア共和国国王選出され不在であったため、シャルル9世死去前日カトリーヌ摂政指名した。しかし、わずか3か月前にヴァヴェル大聖堂戴冠式挙行していたアンリは、フランス王になるためポーランド王位を放棄してフランスへ帰国したカトリーヌアンリにこうと書き送っている。「私はこのような出来事と彼(シャルル9世)が今際示してくれた愛情を目にして悲歎暮れています…私の唯一の慰みは(これはあなたの王国が必要とすることでもあります)すぐにでもあなたと会うことと、あなたの健康です。もしも、あなたを失うようなことがあったなら、私は生きたまま、あなたと埋葬されるつもりです。」。 アンリ3世カトリーヌお気に入り息子だった。兄たち異なりアンリ3世成人男性として即位している。肝臓弱く慢性疲労悩んでいたものの、彼は比較的健康でもあった。しかし、政務対す関心気まぐれなものであった。彼はその人生の最後の数週間前まで、カトリーヌや彼女の顧問官たちに依存している。彼はしばし国事から隠れて巡礼鞭打ち苦行といった敬神行為熱中した1575年2月アンリ3世戴冠式2日後ルイーズ・ド・ロレーヌ=ヴォーデモン結婚し、その選択によって、外国王女政略結婚させようとしていたカトリーヌ計画頓挫したこの頃アンリ3世には子を産ませる能力がないとの噂が広まっていた。教皇使節英語版)サルヴィアーティは「今後、子が生まれると想像することは難しいです医師や彼をよく知る者たちは彼は極端に虚弱であり、そう長く生きられない言っています」と述べている。時が過ぎ、結婚による子が生まれ望み薄れると、「ムッシュー」(Monsieur)の綽名知られるカトリーヌ末子アランソン公フランソワ王位継承者如く振る舞い、しばしば内戦による無秩序宗教対立同時に貴族間の闘争化しつつあった)を助長するようになった。彼女はフランソワ帰順させるために自らのあらゆる権力用いた。ある機会1578年3月)には、彼女は6時間もかけて彼の破滅的な行為危険性について教え諭している。 1576年フランソワアンリ3世王位を脅かす行動起こしており、彼はプロテスタント諸侯同盟をして王室敵対した同年5月6日カトリーヌはほとんど全てのユグノー要求受け入れたボーリュー勅令英語版)を発した。この協定フランソワ王室強要したものと見なされ、「王弟殿下和議」(paix de Monsieur)の名称で知られるその後フランソワネーデルラント介入するが、惨敗喫して彼の軍隊虐殺されてしまい、それからほどない1584年6月結核のため死去した。その翌日カトリーヌは「私は全て有する神の御意志に従わねばならない知ってはいますが、こんなにも多く人々が私より早く死んでしまい、とても惨めな気持ちです」と書き記している。最年少息子の死カトリーヌ王朝構想破局であった男子王位のみを認めサリカ法に基づき今やユグノーナバラ王アンリフランス王位の推定継承権者となったナバラ王アンリ1576年宮廷からの脱走成功すると、プロテスタントに再改宗しユグノー陣営盟主となっていた。 アラソン公フランソワ(左)とマルグリット・ド・ヴァロワ(右) 少なくともカトリーヌ末娘マルグリットナバラ王とを結婚させる予防措置講じてはいた。ところが、マルグリットフランソワ同様にカトリーヌにとっての悩みの種になっており、1582年に彼女は一人フランス宮廷戻ってきていた。カトリーヌマルグリット愛人つくっていると知り金切り声をあげた。カトリーヌはポンポンヌ・ド・ベリエーヴル(英語版)をナバラ派遣してマルグリット帰国手配させている。1585年マルグリットは再びナバラから逃げ出した。彼女は領地アジャン引き籠り、母に金銭乞うた。カトリーヌは「彼女のテーブル食事を置く」に十分な金銭送ったけだったカルラ城に移ったマルグリットはドゥ・ビアッキ(d'Aubiac)を愛人にした。カトリーヌアンリ3世マルグリットが再び自分たちに恥をかかせる前に行動起こすよう求めた1586年10月マルグリットはユッソン城(英語版)に幽閉され愛人のドゥ・ビアッキは処刑された(カトリーヌマルグリット面前で殺すよう命じた実行はされなかった)。カトリーヌマルグリットを彼女の遺言から切り離し二度と会うことはなかった。 カトリーヌアンリ3世フランソワ2世シャルル9世のように制御することはできなかった。政府における彼女の役割は、行政長官放浪する外交官ようになった。彼女は王国内を広く旅し国王の権威を守らせ戦争阻止しよう努めた1578年に彼女は南フランス鎮撫する役目引き受けた59歳の彼女は南フランス巡ってユグノー指導者たちと会談するための、18か月にわたる旅に出立した。この努力により、カトリーヌフランス人々から新たな尊敬集めた1579年パリへの帰還際し、彼女は市外高等法院群衆から歓迎受けている。ヴェネツィア大使ジェロラモ・リポマンノは「彼女は手に負えないフランス人飼いならし、統治する不屈の母后だ。今や彼らは彼女の勲功統一への関心認めており、彼らはもっと早く彼女を評価しなかったことを残念がっている」と書き記している。だが、彼女は幻想など抱いてはいなかった。同年11月25日、彼女は国王にこう書き送っている。「あなたは大規模な反乱目前にしています。そうではないと言う者たちはうそつきです。」

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