アンリ4世の王国平定(1589年 - 1593年)
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「ユグノー戦争」の記事における「アンリ4世の王国平定(1589年 - 1593年)」の解説
1589年時点で、新たにフランス国王に即位したアンリ4世は南部と西部を確保し、カトリック同盟は北部と東部を支配していた。カトリック同盟の主導権はギーズ家一門のマイエンヌ公シャルルに委ねられた。カトリック同盟はブルボン枢機卿を「シャルル10世」として国王に擁立し、マイエンヌ公は王国総代官に任命されている。カトリック同盟はノルマンディー地方のほとんどを支配していた。だが、9月のアルクの戦いでアンリ4世はマイエンヌ公に大勝を収め、国王軍は冬季に町々を攻略してノルマンディーを掃討した。 アンリ4世はフランス平定のためにはパリを攻略せねばならないと知っていたが、これは容易なことではなかった。プロテスタント化したイングランドにおける聖職者や平信徒に対する残虐行為の話がカトリック同盟によって出版され、またその支持者たちにより広められていた。パリ市民はカルヴァン派の国王を受け入れるよりは死ぬことを覚悟して、戦う準備をしていた。 1590年3月14日のイヴリーの戦いでアンリ4世は再びマイエンヌ公を破った。国王軍はパリを包囲したが、8月末にパルマ公アレッサンドロ率いるスペイン軍が歩兵1万8千と騎兵隊5千をもって来援したため、包囲を解かねばならなかった。1491年11月から1492年3月のルーアン包囲戦も同じ結果になった。
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