パリへの帰還とは? わかりやすく解説

パリへの帰還

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 08:46 UTC 版)

モリエール」の記事における「パリへの帰還」の解説

1658年モリエールパリ進出もくろみ、その下準備始めていた。パリ目と鼻の先位置にあるルーアン行った興行大成功収めより一層自信をつけた。ルーアンにはコルネイユ兄弟居住しており、モリエールの彼らに対す敬慕の情もルーアン立ち寄った動機1つであるという。ルーアン滞在中、パリでの庇護者探す目的で、数回パリへ赴いている。13年にも及ぶ南フランスでの修業時代に、有力者庇護受けたり失ったりを繰り返していたモリエールは、演劇の腕を磨いただけではなく有力者との交渉人としても腕が立つようになっていたのであるその結果ルイ14世の弟であるフィリップ1世庇護を受けることに成功し王弟殿下専属劇団Troupe de Monsieur)との肩書獲得し同年10月24日にはルイ14世御前演劇を行うことが許された。モリエールはこの御前公演において、まず初めにコルネイユ悲劇『ニコメード』を上演した。この公演には、数々コルネイユ悲劇上演しパリ大成功収めていたブルゴーニュ座の役者たち臨席していた。彼らの得意演目を、その眼前上演にかけるという大胆な行為出たのである。『ニコメード』の上演を終えると、モリエール国王陛下御前進み出て、『恋する医者の上演を願い出た幸いなことに『恋する医者』は国王陛下お気に入るところとなり、こうして大成功のうちに御前公演終えた。 こうしてモリエールとその劇団は、国王と延臣たちに気に入られ、プチ・ブルボン劇場使用する許可獲得した。既にこの劇場イタリア人劇団使用しており、通常日(日、火、金曜のこと。17世紀フランスには特にこの曜日観劇をする習慣があり、客入りよくなるので、稼ぎであった)を除く曜日のみ使用できるという不利な条件であったが、かつての盛名座のように、劇場賃貸料を気にする必要はもはやなくなったそれどころか、マレー座ブルゴーニュ座と比肩しうるほど劇団にまでなったのである1658年11月には、パリ観客前にデビューしている。『粗忽者』、『恋人の喧嘩』を上演しいずれも2、30公演重ねるなど、成功収めたという。デビュー公演興行成績としては十分に満足できるものであった復活祭迎えたところで、パリでのデビューシーズンを終えた翌年度シーズン備えて劇団新たに5人の役者メンバーとして迎えたマレー座喜劇役者として有名であったジョドレ、その弟レピー、ラ・グランジュ、デュ・クロアジー夫妻である。とりわけラ・グランジュ加入大きな意味を持つ。彼が入団直後からつけ始めた帳簿』によって、劇団パリ劇場何を演じどれほど興行成績上げたか、さらに貴族の館での私的な上演状況劇団並びにその団員にとっての重大事項などが、後世に伝わることとなったジョドレ交換するように、マルキーズ・デュ・パルクとその夫のグロルネマレー座移籍してしまった。この行為の意味はよく分からないが、配役対する不満があったのではないかとする説がある。この頃劇団マルキーズと、カトリーヌ・ド・ブリーマドレーヌ・ベジャールという3人の看板女優抱えており、モリエール彼女たち配役に不満を抱いて対立しないよう苦心していたのだったパリ迎え2年目シーズンは、1659年4月28日始まったジャン・デマレ・ド・サン=ソルランポール・スカロントリスタン・レルミットジャン・ロトルーらの作品など、すでに劇団レパートリーになっていたもの加えて、『粗忽者』、『恋人の喧嘩』など自作品を日替わり舞台にかけていたが、思うよう興行成績上げることができなかった。このような状況打開するのに、大い役立ったのが『才女気取り』である。同年11月18日コルネイユの『シンナとともに初演され時には興行成績それまで平均の2倍以上に跳ね上がった。ほかの作家新作上演都合から何度上演休止しているが、それでも30近く連続して公演を行うなど、大成功収めた。この作品人気聞きつけて、自分の館に劇団招いて私的な上演行わせる貴族次々と現れた。まさにモリエールは、パリ在住あらゆる身分観客たちのこころを捉えつつあった。国王ルイ14世は、この初演の際はピレネー遠征であったが、マリー・テレーズ・ドートリッシュとの婚約取り決めてパリもどってくると、1660年7月29日ヴァンセンヌ城劇団呼び寄せて本作上演させた。 3年目シーズン迎えようとしていた1660年3月末、ジョドレ老衰のために死去した享年70歳大切な役者一人失ってしまった劇団であったが、それを補うようにデュ・パルク夫妻劇団戻ってきた。こうして3年目シーズン迎えた劇団は、同年5月28日に『スガナレル:もしくは疑りぶかい亭主』の初演行った。この作品前作の『才女気取り』ほどではないにせよ、それなりの成功収めた。この成功にあやかろうと同作無断出版するヌフヴィレーヌなる作家現れたが、この海賊版モリエール生前発行され作品集収められ作品何から何まで同一であるため、ヌフヴィレーヌとモリエール同一人物であるとして、この無断出版モリエール宣伝行為ではないか考え研究者もいる。この作家ならびに海賊版出版した書店とは後に和解しているので、当然、別の人物考える者もいる。 1660年10月11日ルーヴル宮殿拡張工事のためにプチ・ブルボン劇場解体工事始まった拠点失ったモリエールであったが、幸いにも庇護者であるフィリップ1世が兄であるルイ14世に話を通してくれたおかげで代わりにパレ・ロワイヤル使用権与えられた。この劇場生涯本拠地となったパレ・ロワイヤルは元々パレ・カルディナルと言ってリシュリュー枢機卿建築したであったルイ13世寄進されていたが、受け取られるともなく長らく放置されていたため、改修工事が必要であった。そのため劇団工事間中貴族たちの館を転々として私的な上演行った10月21日にはルーヴル宮殿で『粗忽者』と『才女気取り』を上演し26日には病のため床に臥せていたジュール・マザランのために、彼の邸宅同様の演目上演したマザラン邸での上演会には国王密かに参加しており、劇団報酬として3000リーヴル与えられている。このころすでにモリエールとその劇団は、国王寵愛集め存在となっていたのだった1661年1月20日、ようやくパレ・ロワイヤル改修終えて劇場として使えるようになった手始めに『スガナレル』や『才女気取り』を上演にかけて、観客たちの様子うかがった後、同年2月4日悲劇ドン・ガルシ・ド・ナヴァール』を上演にかけた。劇作家として技量を示す格好本格悲劇として、周到に準備進めてこの作品初演臨んだモリエールであったが、公演をわずか7回で打ち切るほど観客評判悪く大失敗してしまった。モリエールはこの作品主人公演じたが、すでに喜劇役者として得ていた名声が、大きな障害となってしまったのである。この作品台本モリエール生前中は出版されるともなく1663年最後にモリエール生前上演されなくなった

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