パリへの帰還
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1658年、モリエールはパリ進出をもくろみ、その下準備を始めていた。パリの目と鼻の先の位置にあるルーアンで行った興行は大成功を収め、より一層の自信をつけた。ルーアンにはコルネイユ兄弟が居住しており、モリエールの彼らに対する敬慕の情もルーアンに立ち寄った動機の1つであるという。ルーアンに滞在中、パリでの庇護者を探す目的で、数回パリへ赴いている。13年にも及ぶ南フランスでの修業時代に、有力者の庇護を受けたり失ったりを繰り返していたモリエールは、演劇の腕を磨いただけではなく、有力者との交渉人としても腕が立つようになっていたのである。 その結果、ルイ14世の弟であるフィリップ1世の庇護を受けることに成功し、王弟殿下専属劇団(Troupe de Monsieur)との肩書を獲得し、同年10月24日にはルイ14世の御前で演劇を行うことが許された。モリエールはこの御前公演において、まず初めにコルネイユの悲劇『ニコメード』を上演した。この公演には、数々のコルネイユ悲劇を上演し、パリで大成功を収めていたブルゴーニュ座の役者たちも臨席していた。彼らの得意演目を、その眼前で上演にかけるという大胆な行為に出たのである。『ニコメード』の上演を終えると、モリエールは国王陛下の御前に進み出て、『恋する医者』の上演を願い出た。幸いなことに『恋する医者』は国王陛下のお気に入るところとなり、こうして大成功のうちに御前公演を終えた。 こうしてモリエールとその劇団は、国王と延臣たちに気に入られ、プチ・ブルボン劇場を使用する許可を獲得した。既にこの劇場はイタリア人劇団が使用しており、通常日(日、火、金曜のこと。17世紀フランスには特にこの曜日に観劇をする習慣があり、客入りがよくなるので、稼ぎ時であった)を除く曜日のみ使用できるという不利な条件であったが、かつての盛名座のように、劇場の賃貸料を気にする必要はもはやなくなった。それどころか、マレー座やブルゴーニュ座と比肩しうるほどの劇団にまでなったのである。1658年11月には、パリの観客の前にデビューしている。『粗忽者』、『恋人の喧嘩』を上演し、いずれも2、30回公演を重ねるなど、成功を収めたという。デビュー公演の興行成績としては十分に満足できるものであった。 復活祭を迎えたところで、パリでのデビューシーズンを終えた。翌年度のシーズンに備えて、劇団は新たに5人の役者をメンバーとして迎えた。マレー座で喜劇役者として有名であったジョドレ、その弟レピー、ラ・グランジュ、デュ・クロアジー夫妻である。とりわけ、ラ・グランジュの加入は大きな意味を持つ。彼が入団直後からつけ始めた『帳簿』によって、劇団がパリの劇場で何を演じ、どれほどの興行成績を上げたか、さらに貴族の館での私的な上演の状況や劇団、並びにその団員にとっての重大事項などが、後世に伝わることとなった。ジョドレと交換するように、マルキーズ・デュ・パルクとその夫のグロ=ルネがマレー座に移籍してしまった。この行為の意味はよく分からないが、配役に対する不満があったのではないかとする説がある。この頃劇団はマルキーズと、カトリーヌ・ド・ブリー、マドレーヌ・ベジャールという3人の看板女優を抱えており、モリエールは彼女たちが配役に不満を抱いて対立しないように苦心していたのだった。 パリで迎える2年目のシーズンは、1659年4月28日に始まった。ジャン・デマレ・ド・サン=ソルランやポール・スカロン、トリスタン・レルミット、ジャン・ロトルーらの作品など、すでに劇団のレパートリーになっていたものに加えて、『粗忽者』、『恋人の喧嘩』など自作品を日替わりで舞台にかけていたが、思うように興行成績を上げることができなかった。このような状況を打開するのに、大いに役立ったのが『才女気取り』である。同年11月18日にコルネイユの『シンナ』とともに初演された時には、興行成績がそれまでの平均の2倍以上に跳ね上がった。ほかの作家の新作上演の都合から何度か上演を休止しているが、それでも30回近く連続して公演を行うなど、大成功を収めた。この作品の人気を聞きつけて、自分の館に劇団を招いて私的な上演を行わせる貴族が次々と現れた。まさにモリエールは、パリ在住のあらゆる身分の観客たちのこころを捉えつつあった。国王ルイ14世は、この初演の際はピレネーに遠征中であったが、マリー・テレーズ・ドートリッシュとの婚約を取り決めてパリにもどってくると、1660年7月29日にヴァンセンヌ城に劇団を呼び寄せて本作を上演させた。 3年目のシーズンを迎えようとしていた1660年3月末、ジョドレが老衰のために死去した。享年70歳。大切な役者を一人失ってしまった劇団であったが、それを補うようにデュ・パルク夫妻が劇団に戻ってきた。こうして3年目のシーズンを迎えた劇団は、同年5月28日に『スガナレル:もしくは疑りぶかい亭主』の初演を行った。この作品は前作の『才女気取り』ほどではないにせよ、それなりの成功を収めた。この成功にあやかろうと同作を無断で出版するヌフヴィレーヌなる作家が現れたが、この海賊版とモリエールの生前に発行された作品集に収められた作品が何から何まで同一であるため、ヌフヴィレーヌとモリエールは同一人物であるとして、この無断出版はモリエールの宣伝行為ではないかと考える研究者もいる。この作家ならびに海賊版を出版した書店とは後に和解しているので、当然、別の人物と考える者もいる。 1660年10月11日、ルーヴル宮殿の拡張工事のためにプチ・ブルボン劇場の解体工事が始まった。拠点を失ったモリエールであったが、幸いにも庇護者であるフィリップ1世が兄であるルイ14世に話を通してくれたおかげで、代わりにパレ・ロワイヤルの使用権を与えられた。この劇場が生涯の本拠地となった。パレ・ロワイヤルは元々パレ・カルディナルと言って、リシュリュー枢機卿が建築した館であった。ルイ13世に寄進されていたが、受け取られることもなく長らく放置されていたため、改修工事が必要であった。そのため劇団は工事期間中、貴族たちの館を転々として私的な上演を行った。10月21日にはルーヴル宮殿で『粗忽者』と『才女気取り』を上演し、26日には病のため床に臥せていたジュール・マザランのために、彼の邸宅で同様の演目を上演した。マザラン邸での上演会には国王も密かに参加しており、劇団は報酬として3000リーヴルを与えられている。このころすでにモリエールとその劇団は、国王の寵愛を集める存在へとなっていたのだった。 1661年1月20日、ようやくパレ・ロワイヤルが改修を終えて、劇場として使えるようになった。手始めに『スガナレル』や『才女気取り』を上演にかけて、観客たちの様子をうかがった後、同年2月4日に悲劇『ドン・ガルシ・ド・ナヴァール』を上演にかけた。劇作家としての技量を示す格好の本格悲劇として、周到に準備を進めてこの作品の初演に臨んだモリエールであったが、公演をわずか7回で打ち切るほど観客の評判は悪く、大失敗してしまった。モリエールはこの作品で主人公を演じたが、すでに喜劇役者として得ていた名声が、大きな障害となってしまったのである。この作品の台本はモリエールの生前中は出版されることもなく、1663年を最後にモリエールの生前は上演されなくなった。
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