パリの貴族街
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/11 06:14 UTC 版)
1240年にテンプル騎士団は要塞化工事を施した教会をマレ地区の北側、パリの城壁の外側ほど近くに建設した。タンプル塔によってこの地区は魅力を増し、タンプル地区 (Quartier du Temple)として知られるようになった。また、サント=カトリーヌ=デュ=ヴァル=デゼコリエ教会 (Sainte-Catherine-du-Val-des-Écoliers) と並び、ブラン・マントー (Blancs Manteaux) やサン=クロワ・ド・ラ・ブルトヌリ、カルム=ビエット (Carmes-Billettes) 女子修道院などの数多くの宗教施設が近隣に建設された。 13世紀、ルイ9世の弟シチリア王であるシャルル・ダンジューは、自身の邸宅を現在のセヴィニエ通り7番近くに建てた。14世紀に入った1361年、シャルル5世はオテル・サン=ポール (サン=ポール館、Hôtel Saint-Pol) として知られる邸宅を建て、シャルル5世及びその子シャルル6世の治世において宮廷ないし王宮が置かれた。 その頃の百年戦争の時代を挟んだ16世紀にかけて、サン=ポール館の他、トゥルネル館 (Hôtel des Tournelles) が建てられ、イングランド王フランス摂政ベッドフォード公爵ジョン・オブ・ランカスター、ルイ11世、フランソワ1世、アンリ2世らが居住ないし滞在した。 17世紀に入り1605年、「王の広場」(現在のヴォージュ広場)がブルボン朝創始者アンリ4世のもとで設計されて以降、マレ地区はフランス貴族に居住地として人気があった。フランスの貴族は自分たちの本邸をマレ地区に建てた。オテル・ド・サンス (Hôtel de Sens)、オテル・ド・シュリー (Hôtel de Sully)、オテル・ド・ボーヴェ (Hôtel de Beauvais)、オテル・カルナヴァレ (Hôtel Carnavalet, 現在のカルナヴァレ博物館)、 オテル・ド・ゲネゴー (Hôtel de Guénégaud)、オテル・ド・スービーズ (Hôtel de Soubise) ・・などがその例である。
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