パリへの再移住
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/18 13:53 UTC 版)
1949年、フレデリック・ジョリオ=キュリーから「ご無事をよろこぶ。再び研究を始めましょう」という電報が届いたのをきっかけに、湯浅は再びパリに渡り研究を再開した。中断した5年間の遅れを取り戻すのには苦労したが、やがてβ崩壊の研究などで成果を上げ、国際会議でも講演するようになった。 湯浅はお茶の水女子大からの出張という扱いでパリで活動していたが、1952年には出張期限が切れたため、以後は休職という形でパリに留まった。1955年にはその休職期間も切れたため、湯浅は日本に戻るか大学を退職してパリで研究員となるかの選択を迫られた。日本からは帰国を促す手紙も寄せられ、湯浅は悩んだが、研究を継続させるためにパリに残ることに決めた。そして1955年10月に、今まで研究を行っていたCNRS(フランス国立中央科学研究所)の研究員となった。 湯浅の研究は進み、1957年には主任研究員となった。一方で、1956年にはイレーヌ・ジョリオ=キュリー、1958年にはフレデリック・ジョリオ=キュリーが死去し、湯浅は深く悲しんだ。
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