パリの拡張
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1860年、パリは、その直接の市域をティエールの城壁にまで広げ、ティエールの城壁内のコミューン(またはコミューンの一部)を併合した(「パリの行政区」「パリ改造」を参照)。
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パリの拡張
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1853年以降セーヌ県知事を務めていたジョルジュ=ウジェーヌ・オスマンは、毎日ブローニュの森から押し寄せる乗用車や乗用馬の渋滞を気にかけ、パッシー及びヌイイをパリに併合して、エトワール広場を拡張し、入市税関をポルト・マイヨへ移転させるという、後の「パリ改造」に繋がる構想を1856年頃から持っていた。 一方、ナポレオン3世は、セーヌ県に加え、ムードン及びセーヴルを一括する« Grand Paris »(大パリ)を夢想していた。そこで、アンリ・シメオン伯爵が率いる委員会を作り、その報告書で首都及びその行政区の改造を予め示させた。 それよりも何年か早かったティエールの城壁の建設は、いくつかのコミューンが壁によってコミューン内部で二分されるという特異な状況を引き起こした。他方で、ドゥラングル内務大臣は、ティエールの城壁とフェルミエー・ジェネローの城壁との間に存在する土地は、"パリの領土"として発展するほかないと主張した。 1859年、地図上で「左から右・上から下」へと順に区の番号を割り当てるという計画があったが、現在の16区が「13区」に該当したことから、その住民の反対に遭い、放棄された。すなわち、12区までしか存在しなかった当時、「第13区区役所で民事婚の式を挙げる」という言い回しは、正式な民事婚を経ずに同棲をすることを意味し、良俗に反する生活を暗示したからである。結局、現在のような渦巻き型で番号が振られることになり、人口の最も多かった現在の13区に13の数字が割り当てられた。 パリ市は1795年以降12の行政区に分けられていたが、1860年1月1日に市域の拡張にともない20の区に再編された。これはパリにティエールの城壁内の以下のコミューンを併合する1859年6月16日の法律が施行されたことによるものである。 次のコミューンの全部ベルヴィル (セーヌ) (19区・20区) グルネル (15区) ヴォジラール (15区) ラ・ヴィレット(19区・20区) 次のコミューンの大半(これらのコミューンは廃止され、一部は他の近隣のコミューンに併合された)オートゥイユ(16区・ブローニュ=ビヤンクール) レ・バティニョル・モンソー(17区・クリシー=スー=ボワ) ベルシー(12区・シャラントン・ル・ポン) ラ・シャペル=サン=ドニ(18区・オーベルヴィリエ・サン=ドニ・サン=トゥアン) シャロンヌ (20区・バニョレ・モントルイユ) モンマルトル (18区・サン=トゥアン) パッシー(16区・ブローニュ=ビヤンクール) 次のコミューンの一部オーベルヴィリエ (19区) バニョレ (20区) ジャンティイ (13区Glacièreカルチェ・13区Maison-Blancheカルチェ) イシー=レ=ムリノー (15区Javelカルチェ) イヴリー (13区) モンルージュ (14区Petit-Montrougeカルチェ) ヌイイ=シュル=セーヌ (17区Ternesカルチェ) パンタン (19区) ル・プレ=サン=ジェルヴェ(20区) サン=マンデ (12区Bel-Airカルチェ・同Picpusカルチェ) サン=トゥアン (18区) ヴァンヴ (14区)
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