国王の権威
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/27 10:05 UTC 版)
カロリング帝国のレガリア(王権の象徴となる物品)はルートヴィヒ1世敬虔帝の死に際して皇帝ロタール1世とシャルル2世禿頭王が分け合った。ルートヴィヒ2世ドイツ人王は父に対して反乱を起こしていたため、戴冠用宝玉や典礼書といったカロリング王権に結びついたものは何も受け取れなかった。そのため、東フランク王権の象徴や儀式は一から作られた。888年6月に国王アルヌルフはマインツで教会会議を招集した。東フランクの三大司教、すなわちケルン大司教ヴィリヴェルト、マインツ大司教リウトベルト、トリーア大司教ラトボドが出席し、さらに西フランク王国からランス大司教フルクとルーアン大司教ジャン1世がボーヴェとノワイヨンの司教を連れて参加していた。この会議の目的は西フランクの戴冠式で行われている聖成と塗油の儀式を東フランクにも導入することであり、キリスト教的思想に明るくない東フランクには西フランク大司教たちの助言が必要だった。これは東西フランク王国を再び一つにまとめる第一歩として位置づけられていた。895年にもトレーブールで会議が開かれ、司祭はアルヌルフが人ではなく神によって王に選ばれていることを宣言し、アルヌルフは教会とその特権をあらゆる外敵から守ることを誓った。 こうして作られた東フランクにおける国王権威に対する概念は西フランクと比べてより厳粛なものとなった。900年前後に国王戴冠式のためのordoと呼ばれる典礼書が成立し、これは民間の観衆のために書かれたものであった。王冠を授ける司教はまず新国王に問いかけ、教会と民衆を守る意思を確認した。司教は続けて観衆に振り向き、新国王に服従してその法に従う意思があるかを尋ねた。観衆は「応! 応!」と叫び、この行為は後に国王の正当性を示す「承認」の儀礼として定着した。アルヌルフが899年に死去すると末子のルートヴィヒ4世が戴冠した。このとき塗油は行われず、幼少の王はマインツ大司教の保護下に置かれた。ルートヴィヒ4世の戴冠式は詳細な記録が残るものとしてはドイツ初のものである。ルートヴィヒ4世が911年に早世すると、フランケン公コンラートが11月10日に新国王として選ばれ国王として塗油を受けた。ハインリヒ1世は戴冠の塗油を拒否したが、オットー1世以降は塗油の儀式を行っている。
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