国王の逃亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 08:10 UTC 版)
1790年10月に国民議会の改革に歯止めをかけようとして国民議会の多数派と対立していたネッケル派の大臣が辞職に追い込まれた。国王はこれを受けてパリにとどまって国民議会と妥協を重ねることの無意味さを認めて、逃亡計画を密かに立てた。1791年6月20日に脱出計画が実行されたが、国境近くのヴァレンヌで捕まり、パリに連れ戻された(ヴァレンヌ事件)。 この事件の結果、もっとも右翼的、保守的な貴族議員が相次いで亡命した。軍隊の貴族将校からも大量の亡命者を出した。高級僧侶や高級貴族のうち王党派とみられた者は監視されたり監禁されたりした。国民議会の左翼は王権を廃止して共和制を宣言する請願書を出し、貴族政治家はほぼ一致して国王を守ろうとした。ジャコバンクラブの多数はルイ16世の廃位を決議したが、議会の多数が賛成して王位は守られた。
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