実行と失敗
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1791年6月20日(月曜)の深夜、ルイ16世と王妃、王子と王女は、それぞれ変装してばらばらに分かれてテュイルリー宮殿を抜けだした。予定では午前0時の出発のはずだったが、国王の監視役であったラファイエットの予定外の長居によって、結局、国王が宮殿を出たのは午前1時を過ぎていた。一行は、ロシア貴族のコルフ侯爵夫人に成りすまして、近衛士官マルデンの手引きで、幌付き2頭立ての馬車に乗って誰にも止められることなく宮殿を出ていった。王子と王女は仮面舞踏会にいくと言い含められていたので驚いたようである。一方、護衛を務めるショワズールとゴグラーは、この10時間前に猟騎兵を連れてすでにパリを出ていた。 旅券には書かれた一行の人数は6人で、コルフ侯爵夫人の役には王子たちの保母であったトゥルゼール公爵夫人 (Louise-Elisabeth de Croÿ de Tourzel) がなり、その子供には王太子ルイ=シャルルと王女マリー・テレーズが、旅行介添人が王妹エリザベート、デュランという名前の従僕にルイ16世が、マダム・ロッシュという名前の侍女にマリー・アントワネットが扮していた。馬車の御者は変装したフェルセンであった。まずクリシー街(現パリ9区クリシー通り(フランス語版)27番地付近)のシュリヴァン夫人の邸宅に着くと、ここで用意していた大型の豪華なベルリン馬車に乗り換えた。さらに2人の従者が車後に乗った。フェルセンは自ら手綱を操って、回り道しながら2台の馬車は北に向かった。すでに午前2時半を過ぎていた。 翌21日の午前6時に侍女たちが国王一家の不在に気付いて通報したので、彼らには4時間の猶予もなかった。急を知ったラファイエットは、国民議会と市役所に大砲を3発放たせて警報を発し、パリに厳戒態勢をしいた。捜索隊がすぐに組織された。怒った民衆はすぐに宮殿になだれ込んで、ルイ16世の胸像を叩き壊し、早くも退位を要求するなどいきり立っていた。大砲の音は逃走中の馬車の中の国王の耳にも聞こえたので、彼は何通か遺書を書いたが、しばらくすると追っ手はついて来ていないことがわかり、緊張が解けた安堵から気が抜けていった。パリ郊外のボンディまで来て、ルイ16世はこれ以上はフェルセンは随行するなと命じた。外国人に先導されることも、王妃と親しすぎる人物を連れて行くこともできなかったからである。彼は王妃に別れを告げて去った。 その頃、ショワズールは、40名の猟騎兵とともにシャロンの町の近くのポン・ド・ソルヴェールの橋でずっと待っていたが、待てども待てども国王の馬車は到着しなかった。何事かと訝る住民の目に晒されて、だんだん不安になったショワズールは、部隊を分散させ、街道から隠すことにした。国王の馬車は、銀食器やワイン8樽、調理用暖炉2台など必要品をたっぷり載せ、ゆっくりとした速度で進んでいた。国王一行がシャロンに到着したのは午後4時だった。扮装した国王一行は安心しきっており、ここで優雅に食事をして、豪華な馬車と荷物を人々に見せびらかせて悠々と去っていった。すぐに町中に王室一家が通過したという噂が広まった。ポン・ド・ソルヴェールで国王は最初の護衛に会えると思っていたが、ショワズールの愚かな判断によって行き違いになった。次のサント=ムヌーの町でも別の竜騎兵部隊が待っている予定であったので、国王はさらに2時間進んでこちらと遭遇することを期待した。 しかしサント=ムヌウでも、不審な部隊を警戒した地元の国民衛兵隊300名が武装して集まってきたので、衝突を恐れた指揮官のダンドワン大尉は解散を命じて、竜騎兵たちの多くは市民と一緒に酔っぱらっていた。よってここでも国王は護衛とは合流できなかった。しかしダンドワン大尉は何とか国王の馬車を見つけ、彼は近寄って会釈した。ところが運悪く、それを夕涼みに出ていた宿駅長のジャン=バプティスト・ドルーエ (Jean-Baptiste Drouet) が見ていた。彼は大尉や竜騎兵たちが馬車の中の従僕や侍女に恭しく挨拶するのを怪訝に思った。そこにシャロンから王室一家が通過したという噂が流れてきたので、ハッとしたドルーエは地区役所に走って、書記からアッシニア紙幣を受け取って印刷された肖像を見てみると、まさにさっきの一行の中にいたのがルイ16世であった。彼らは馬に乗って馬車を急いで追いかけ、間道を抜けて先回りした。 クレルモン・エン・アルゴンヌ(フランス語版)の町で国王はようやく護衛の竜騎兵部隊と合流できたが、国王の逃亡はすでにこの町ではニュースになって騒ぎになっていた。町の当局者は、一行を怪しんだものの、コルフ侯爵夫人の旅券をもつ国王の馬車を止める権限がなかったので、行かせることにした。しかし明らかに不審な部隊の随行は禁止した。再び護衛と引き離された国王の馬車がヴァレンヌに到着した時、ドルーエらは先に到着して、大勢の群衆と共に待ち構えていた。 ヴァレンヌの町では、ブイエの息子ら2人の連絡将校が待っているはずだったが、彼らは待ちくたびれて寝込んでいた。橋の向こうでは、馬車の替え馬が準備されていた。ここで馬を替えればモンメディまでは僅かな距離であった。ドルーエは警鐘を鳴らし、(彼にはそんな権限はなかったが)何としても亡命を阻止すべく、すでに橋にバリケードを作って封鎖していた。騒ぎに目を覚ましたブイエの息子は発覚したと思って逃げ出した。ドルーエに「引き留めないと反逆罪だぞ」と脅されていた町長は、旅券をチェックして「よろしい」と許可を与えたが、もう旅を続けるには遅いから一休みしていかれてはどうかと勧めた。馬車を群衆に包囲され身動きがとれなかったので、しばらくすればブイエかショワズールの部隊が助けに来るのではないかと期待した国王は、この招待を受けることにした。24時間の逃避行で彼らも疲れていた。「ソース」という名前の食料品店の2階に部屋が設けられ、簡易ベッドと粗末な食事が出された。 夜半になって、ショワズールが猟騎兵を連れて息を切らせて到着し、彼らは群衆をかき分けて食料品店の2階に駆け上がってきた。すぐに血路を開いて脱出しようというが、外には数万の群衆が集まっており、中には武装した国民衛兵隊もいた。大半は只の野次馬で、これらすべてが国王に敵愾心があったとは思えないが、かといって無事に通り過ぎられそうでもなかった。女子供を連れて強行突破は難しいと逡巡している間に朝がきた。 6月22日、国民議会の使者ロメーフが国王一家を拘留せよとの命令を持って現れた。すべてが露見したが、ルイ16世はさらに時間稼ぎをしてブイエが救援するのを待とうと試みた。国王は疲れているのでパリに立つまで2、3時間の休息が欲しいと言った。ロメーフはラファイエットの副官で、内心では王党派であったのでこれを受け入れた。しかしもう一人の使者のバイヨンが拒否し、「パリへ、パリへ」と群衆を煽った。群衆の怒声と熱気に恐れをなした町長や町議員、商店主が出立を懇願するので、国王もついに観念し、しょうがなく国王一家は車中の人となった。マリー・アントワネットは屈辱に唇を噛みしめていた。その僅か半時後、ブイエ侯爵は部隊をつれてヴァレンヌの町の手前まで来て、国王がすでに屈服したと知らされた。彼はそのまま踵を返して道を引き返し、国境を越えて亡命した。 一方で、同じ日に逃亡した王弟のプロヴァンス伯爵夫妻は、同じ頃には無事にオーストリア領ネーデルラントに到達していた。プロヴァンス伯は、6月20日の夜に兄ルイ16世に会ったのが、今生の別れとなった。彼は2年後の兄の死と前述の王妃を摂政職から排除する法律によって、自動的にフランスの摂政となる。 6月25日夕方7時、国王一家はテュイルリー宮殿に連れ戻された。議会を代表する護衛としてバルナーヴ、ペティヨン、モブールの3議員が途中で加わっていた。道中の各地に「国王に礼を尽くすものは撲殺。国王に非難を加えるものは縛り首」との警告ビラが貼られた。パリは国王一家を沈黙で持って迎えた。以後の国王は「民衆にとっては裏切り者、革命にとっては玩具」となってしまった。
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