実行と失敗とは? わかりやすく解説

実行と失敗

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/30 05:43 UTC 版)

ヴァレンヌ事件」の記事における「実行と失敗」の解説

1791年6月20日月曜)の深夜ルイ16世王妃王子王女は、それぞれ変装してばらばらに分かれてテュイルリー宮殿抜けだした。予定では午前0時出発のはずだったが、国王監視役であったラファイエット予定外の長居によって、結局国王宮殿出たのは午前1時を過ぎていた。一行は、ロシア貴族コルフ侯爵夫人成りすまして、近衛士官マルデンの手引きで、幌付き2頭立て馬車乗って誰にも止められることなく宮殿出ていった。王子王女仮面舞踏会にいくと言い含められていたので驚いたようである。一方護衛務めショワズールとゴグラーは、この10時前に猟騎兵連れてすでにパリ出ていた。 旅券には書かれ一行人数は6人で、コルフ侯爵夫人の役には王子たち保母であったトゥルゼール公爵夫人 (Louise-Elisabeth de Croÿ de Tourzel) がなり、その子供に王太子ルイ=シャルル王女マリー・テレーズが、旅行介添人王妹エリザベートデュランという名前の従僕ルイ16世が、マダム・ロッシュという名前の侍女マリー・アントワネット扮していた。馬車御者変装したフェルセンであった。まずクリシー街(現パリ9区クリシー通りフランス語版27番地付近)のシュリヴァン夫人邸宅に着くと、ここで用意していた大型豪華なベルリン馬車乗り換えた。さらに2人従者が車後に乗ったフェルセンは自ら手綱操って回り道しながら2台の馬車は北に向かった。すでに午前2時半過ぎていた。 翌21日午前6時侍女たち国王一家不在気付いて通報したので、彼らには4時間の猶予もなかった。急を知ったラファイエットは、国民議会市役所大砲を3発放たせて警報発しパリ厳戒態勢をしいた。捜索隊がすぐに組織された。怒った民衆はすぐに宮殿になだれ込んでルイ16世胸像叩き壊し早くも退位要求するなどいきり立っていた。大砲の音は逃走中馬車の中の国王の耳にも聞こえたので、彼は何通か遺書書いたが、しばらくすると追っ手はついて来ていないことがわかり、緊張解けた安堵から気が抜けていった。パリ郊外ボンディまで来てルイ16世これ以上フェルセン随行するなと命じた外国人先導されることも、王妃親しすぎる人物連れて行くこともできなかったからである。彼は王妃別れ告げて去ったその頃ショワズールは、40名の猟騎兵とともにシャロンの町の近くのポン・ド・ソルヴェールのでずっと待っていたが、待てども待てども国王馬車到着しなかった。何事かと訝る住民の目に晒されて、だんだん不安になったショワズールは、部隊分散させ、街道から隠すことにした。国王馬車は、銀食器ワイン8調理用暖炉2台など必要品をたっぷり載せゆっくりとした速度進んでいた。国王一行シャロン到着したのは午後4時だった。扮装した国王一行安心しきっており、ここで優雅に食事をして、豪華な馬車荷物人々見せびらかせ悠々と去っていった。すぐに町中王室一家通過したという噂が広まった。ポン・ド・ソルヴェールで国王最初護衛会えると思っていたが、ショワズール愚かな判断によって行き違いになった次のサント=ムヌーの町でも別の竜騎兵部隊待っている予定であったので、国王はさらに2時間進んでこちらと遭遇することを期待した。 しかしサント=ムヌウでも、不審部隊警戒した地元国民衛兵300名が武装して集まってきたので、衝突恐れた指揮官のダンドワン大尉解散命じて竜騎兵たちの多く市民一緒に酔っぱらっていた。よってここでも国王護衛とは合流できなかった。しかしダンドワン大尉は何とか国王馬車を見つけ、彼は近寄って会釈した。ところが運悪く、それを夕涼み出ていた宿駅長のジャン=バプティスト・ドルーエ (Jean-Baptiste Drouet) が見ていた。彼は大尉竜騎兵たちが馬車の中の従僕侍女恭しく挨拶するのを怪訝思った。そこにシャロンから王室一家通過したという噂が流れてきたので、ハッとしたドルーエ地区役所走って書記からアッシニア紙幣受け取って印刷され肖像見てみると、まさにさっきの一行中にいたのがルイ16世であった。彼らは馬に乗って馬車急いで追いかけ間道抜けて先回りした。 クレルモン・エン・アルゴンヌ(フランス語版)の町で国王はようやく護衛竜騎兵部隊合流できたが、国王の逃亡はすでにこの町ではニュースになって騒ぎになっていた。町の当局者は、一行怪しんだものの、コルフ侯爵夫人旅券をもつ国王馬車止める権限がなかったので、行かせることにした。しかし明らかに不審部隊随行禁止した。再び護衛引き離され国王馬車ヴァレンヌ到着した時、ドルーエらは先に到着して大勢群衆と共に待ち構えていた。 ヴァレンヌの町では、ブイエ息子2人連絡将校待っているはずだったが、彼らは待ちくたびれて寝込んでいた。向こうでは、馬車替え馬が準備されていた。ここで馬を替えればモンメディまでは僅かな距離であったドルーエ警鐘鳴らし、(彼にはそんな権限はなかったが)何としても亡命阻止すべく、すでにバリケード作って封鎖していた。騒ぎ目を覚ましたブイエ息子発覚した思って逃げ出したドルーエに「引き留めないと反逆罪だぞ」と脅されていた町長は、旅券チェックして「よろしい」と許可与えたが、もう旅を続けるには遅いから一休みしていかれてはどうかと勧めた馬車群衆包囲され身動きがとれなかったので、しばらくすればブイエショワズール部隊助けに来るのではないか期待した国王は、この招待を受けることにした。24時間逃避行で彼らも疲れていた。「ソース」という名前の食料品店2階部屋設けられ簡易ベッド粗末な食事出された。 夜半になってショワズール猟騎兵連れて息を切らせ到着し、彼らは群衆をかき分けて食料品店2階駆け上がってきた。すぐに血路を開いて脱出しようというが、外には数万群衆集まっており、中には武装した国民衛兵隊もいた。大半は只の野次馬で、これらすべてが国王敵愾心があったとは思えないが、かといって無事に通り過ぎられそうでもなかった。女子供連れて強行突破難しいと逡巡している間に朝がきた。 6月22日国民議会使者ロメーフが国王一家拘留せよとの命令持って現れた。すべてが露見したが、ルイ16世はさらに時間稼ぎをしてブイエ救援するのを待とう試みた国王疲れているのでパリに立つまで2、3時間休息欲しと言った。ロメーフはラファイエット副官で、内心では王党派であったのでこれを受け入れた。しかしもう一人使者バイヨン拒否し、「パリへパリへ」と群衆煽った群衆怒声熱気恐れをなした町長町議員、商店主が出立懇願するので、国王もついに観念ししょうがなく国王一家車中の人となったマリー・アントワネット屈辱に唇を噛みしめていた。その僅か半時後、ブイエ侯爵部隊をつれてヴァレンヌの町の手前まで来て国王がすでに屈服した知らされた。彼はそのまま踵を返して道を引き返し国境越えて亡命した一方で、同じ日に逃亡した王弟プロヴァンス伯爵夫妻は、同じ頃には無事にオーストリア領ネーデルラント到達していた。プロヴァンス伯は、6月20日夜にルイ16世会ったのが、今生の別れとなった。彼は2年後の兄の死と前述王妃摂政職から排除する法律によって、自動的にフランス摂政となる。 6月25日夕方7時国王一家テュイルリー宮殿に連れ戻された。議会代表する護衛としてバルナーヴ、ペティヨン、モブールの3議員途中で加わっていた。道中各地に「国王礼を尽くすものは撲殺国王非難加えるものは縛り首」との警告ビラが貼られた。パリ国王一家沈黙持って迎えた以後国王は「民衆にとっては裏切り者革命にとっては玩具となってしまった。

※この「実行と失敗」の解説は、「ヴァレンヌ事件」の解説の一部です。
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