出兵の実行と失敗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 15:41 UTC 版)
「村山等安の台湾出兵」の記事における「出兵の実行と失敗」の解説
約半年間の準備期間を経て、1616年(元和2年)3月末、推定約2000〜3000人の兵員を乗せた13隻の艦隊が、長崎から台湾へ向かった。司令官は村山等安の次男の村山秋安が務めた。しかし、長崎出港の翌日に艦隊は五島列島に寄港したが、その後行方が分からなくなった。琉球沖で暴風雨に遭い、各船がバラバラになってしまったのである。 目的地である台湾にたどり着いたのはわずかに1隻であった。到着直後、船は即座に現地人に取り囲まれて逃げることもかなわず、乗員たちは切腹して全滅した。なお後述する翌1617年(元和3年)、村山等安が明との交易復活をもくろみ福建に部下の明石道友を派遣した際、福建側交渉担当者からなぜ台湾の淡水を侵擾したのかと詰問されている。 他に3隻の船は中国浙江省沿岸を荒らしまくり、1200名あまりの住民を殺害した。この浙江での事態の影響を受け、1616年中は長崎に中国船の来航が困難となってしまい、長崎在住の中国人たちは将軍に訴えることを決心したと伝えられている。 遠征隊のうち明石道友が率いた2隻の船は、5月に福建省沿岸に姿を見せた。日本船が来航した福建はパニック状態に陥り、沿岸住民が避難する騒ぎとなった。その中で董伯起という人物が明石道友との交渉に当たり、その結果、道友は董を人質として連行することを条件に福建から退去することにした。人質として日本に連行される際に董伯起は交渉経過を記した書状を福建側に残し、経過を把握した福建は平静を取り戻した。 台湾出兵が失敗した要因の一つとして、情報が事前に中国側に漏れていたことが挙げられる。長崎に来航した中国人商人から出兵に関する情報が明当局に流れていたと推測される上に、確実なのは琉球を通じて明側に情報が伝えられていたことである。薩摩藩による琉球侵攻後、琉球は明から10年間朝貢の停止を命じられていた。朝貢停止の解除を願った琉球は、500隻の軍船が台湾を奪う計画を進めていると明へ通報したのである。通報の内容は実際よりも著しく過大ではあったが、明は秀吉の朝鮮出兵を通報した時の前例に倣い、琉球からの使節に褒賞を与えた。しかし肝心の朝貢再開については認めなかった。 台湾へ向かう途中、琉球沖で暴風雨に遭ってバラバラになった13隻編成の艦隊であったが、台湾で現地人の攻撃を受け全滅した1隻を除き、残りの12隻については日本に帰還出来たと考えられている。浙江沿岸を荒らしまくったとされる3隻を含む7隻は浙江省付近に到着した後、1616年(元和元年)中に長崎に戻り、明石道友が率いる2隻は前述のように福建に到達し董伯起を人質としてやはり元和元年中に長崎に戻った。そして艦隊の司令官であった村山秋安直属の3隻は、遠くベトナム方面まで流されて翌1617年(元和2年)6月になってようやく長崎に帰還出来た。
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