出兵前後に生じた影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 18:42 UTC 版)
「文禄・慶長の役」の記事における「出兵前後に生じた影響」の解説
留守中の大名領地に太閤検地が行われ、豊臣政権の統治力と官僚的な集団が強化された。しかし戦後にはこの戦争に過大な兵役を課せられた西国大名が疲弊し、家臣団が分裂したり内乱が勃発する大名も出るなど、かえって豊臣政権の基盤を危うくする結果となった。 また、出兵に必要な武器・弾薬・兵粮・戦夫の多くは大名の負担であり、その負担は直接出陣していない領内の家臣や百姓に転嫁されただけでなく、実際の戦夫として百姓の動員が行われた。このため、農村では動員に抵抗する動きが発生し、また一度動員されて朝鮮半島に送られた戦夫の中にも逃亡して秘かに日本に逃げ帰るものもいた。文禄2年に西生浦倭城にいた加藤清正が1通の書付を見つけた。それは領国・肥後の百姓から清正に随行している人夫に充てて記されたもので、「今なら集団で肥後に逃げ帰っても代官の改めもないあり様なので逃げ帰るのなら今だ」という内容で、百姓の抵抗が留守の代官まで巻き込むものになっていることを示すものだった。帰国した清正は夫役の免除などを行って民心の安定を図るものの、豊臣政権の分裂の影響で有名無実となり、財政難の克服と農村再建が重くのしかかることになる が、出陣した大名が多かれ少なかれ直面した問題であった。 一方で、諸大名中最大の石高を持ちながら、九州への出陣止まりで朝鮮へ出兵しなかった徳川家康が隠然たる力を持つようになった。西国大名が出兵で疲弊した一方で、損耗を免れたことが徳川家康が後に天下を取る要因の一つとなった。 五大老の筆頭となった家康は秀吉死後の和平交渉でも主導権を握り、実質的な政権運営者へとのし上がってゆく。この官僚集団と家康の急成長は、豊臣政権存続を図る官僚集団(主に石田三成)と次期政権を狙う家康との対立に発展し、関ヶ原の戦い慶長5年(1600年)に至った。戦いに圧勝した家康は日本国内で不動の地位を得、慶長8年(1603年)に朝廷より征夷大将軍に任ぜられ徳川幕府を創設した。さらに家康は大坂の陣慶長19-20年(1614-1615年)で豊臣氏を滅亡させることで徳川氏による国内覇権を確立、江戸時代が始まった。 また、出兵に参加した大名たちによって連れてこられたり、大名と雇用関係を結んだりして自ら来日した朝鮮人から様々な技能が伝えられた。朝鮮人儒学者との学問や書画文芸での交流、そして陶工が大陸式の磁器の製法、瓦の装飾などを伝えたことで日本の文化に新たな一面を加えた。その一方、多くの朝鮮人捕虜が戦役で失われた国内の労働力を補うために使役され、また奴隷として海外に売られたこともあった。 慣れない異国の戦争は後の台湾出兵・日清戦争と同様に戦死者以上の戦病死を発生させた。文禄二年二月五日付島津義久や吉川広家に宛てた秀吉朱印状には、これまで動員した船頭・水夫の大半が病死したため、浦々から15歳から60歳までの水夫を動員することを命じている。同年四月十二日付渡海諸将宛秀吉朱印状にも病が蔓延しているので医師20人を派遣するとある。陸でも同年七月二十一日付伊達政宗書状には腫気という病を得た者は十人中九人が亡くなったとし、また同月二十四日付書状には水の違いで多くの者が病死したとある。ルイス・フロイスの調査によれば、文禄の役で渡海した十五万人の内、死亡者は五万人、その殆どは過労死・餓死・凍死・病死であった。大名に限っても豊臣秀勝・加藤光泰・戸田勝隆・長谷川秀一・五島純玄・島津久保が渡海先で、もしくは渡海先で病を得て帰国後に病死している。
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