出兵・序盤
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元亀元年(1570年)12月28日に秋山虎繁が東美濃の遠山氏の領地を通って、徳川家康の本拠地の三河へ攻め込もうとした。そのため遠山氏と徳川氏の連合軍との間で上村合戦が勃発した。この時、延友佐渡守は岩村城が武田方になったにも関わらず忠節を尽くしたことを信長に賞され、美濃国日吉郷・釜戸本郷を与えられた。 元亀3年(1572年)9月29日、武田信玄は重臣の山県昌景と秋山虎繁(信友)に3000の兵力を預けて信長の同盟者である徳川家康の領国である三河に侵攻させた。そして10月3日、信玄も2万2000の兵力を率いて甲府から出陣し、10月10日には青崩峠(または兵越峠)から家康の所領・遠江に侵攻を開始した。 三河に侵攻した山県昌景は新たに指揮下に組み込んだ北三河の国人領主で、“山家三方衆”とも呼ばれる田峯城主・菅沼定忠、作手城主・奥平貞勝、長篠城主・菅沼正貞に道案内(実際には貞勝の代将が奥平貞能、正貞の代将は菅沼満直)をさせて浜松方面へ進軍し、長篠城の南東に位置する鈴木重時の柿本城を攻撃した。柿本城から逃れる重時を逃亡途中で討ち果たした山県勢は、さらに越国。遠江の伊平城を落として11月初旬、二俣城を攻囲していた信玄本隊に合流した。 一方、東美濃では同年5月に岩村城城主遠山景任が後継ぎが無いまま病いで亡くなったため、景任の未亡人で信長の叔母・おつやの方が実質的に女城主となっていた。岩村遠山氏の後継ぎとして信長は実子の御坊丸(織田勝長、当時3歳)を養子として送り込んでいたが、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}秋山虎繁に岩村城を包囲されて危機に陥ると、おつやの方は秋山虎繁から婚姻を条件として開城を求められ、それに応じて武田氏の軍門に下り、御坊丸を武田氏に引き渡した。[要出典]11月14日に信玄は配下の下条信氏を派遣して岩村城を接収した。このことは『三河物語』にも「信玄は上方へ手引きをする者がいたので三河から東美濃へ出ることにした」と記述されている。 そして遠江に信玄本隊が侵攻すると、北遠江で勢威を振るっていた家康の与党・天野景貫は信玄の勢威を恐れて即座に降伏し、信玄の道案内を務めた。10月13日、信玄は本隊を2隊に分け、5000ほどの1隊を重臣の馬場信春に預けて只深城を攻略させて二俣城に進撃させ、残る1万7000の信玄本隊は天方城・一宮城・飯田城・挌和城・向笠城など北遠江の徳川諸城をわずか1日で全て落とした。
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