出兵・序盤とは? わかりやすく解説

出兵・序盤

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 07:54 UTC 版)

西上作戦」の記事における「出兵・序盤」の解説

元亀元年(1570年)12月28日秋山虎繁東美濃遠山氏領地通って徳川家康本拠地三河攻め込もうとした。そのため遠山氏徳川氏連合軍との間で上村合戦勃発した。この時、延友佐渡守岩村城武田方になったにも関わらず忠節尽くしたことを信長賞され美濃国日吉郷・釜戸本郷与えられた。 元亀3年1572年9月29日武田信玄重臣山県昌景秋山虎繁信友)に3000兵力預けて信長同盟者である徳川家康領国である三河侵攻させた。そして10月3日信玄2万2000兵力率いて甲府から出陣し10月10日には青崩峠(または兵越峠)から家康所領遠江侵攻開始した三河侵攻した山県昌景新たに指揮下に組み込んだ三河の国領主で、“山家三方衆”とも呼ばれる田峯城主・菅沼定忠作手城主・奥平貞勝長篠城主・菅沼正貞道案内実際には貞勝の代将奥平貞能、正貞の代将菅沼満直)をさせて浜松方面進軍し長篠城南東位置する鈴木重時柿本城を攻撃した柿本城から逃れる重時を逃亡途中で討ち果たした山県勢は、さらに越国遠江伊平城を落として11月初旬二俣城攻囲していた信玄本隊合流した一方東美濃では同年5月岩村城城主遠山景任後継ぎが無いまま病い亡くなったため、景任の未亡人信長叔母おつやの方実質的に城主となっていた。岩村遠山氏後継ぎとして信長実子御坊丸(織田勝長当時3歳)を養子として送り込んでいたが、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}秋山虎繁岩村城包囲され危機陥ると、おつやの方秋山虎繁から婚姻条件として開城求められ、それに応じて武田氏軍門下り御坊丸を武田氏引き渡した。[要出典]11月14日信玄配下下条信氏派遣して岩村城接収した。このことは『三河物語』にも「信玄上方手引きをする者がいたので三河から東美濃へ出ることにした」と記述されている。 そして遠江信玄本隊侵攻すると、北遠江で勢威振るっていた家康与党天野景貫信玄勢威恐れて即座に降伏し信玄道案内務めた10月13日信玄本隊を2隊に分け5000ほどの1隊を重臣馬場信春預けて深城攻略させて二俣城進撃させ、残る1万7000信玄本隊天方城一宮城飯田城・挌和城向笠城など北遠江の徳川諸城をわずか1日全て落とした

※この「出兵・序盤」の解説は、「西上作戦」の解説の一部です。
「出兵・序盤」を含む「西上作戦」の記事については、「西上作戦」の概要を参照ください。

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