実行された主な政策
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「馬政第一次計画」の記事における「実行された主な政策」の解説
第一期計画に基づいて実行された主な政策について記述する。 馬政局・馬政委員会の設置 要綱実現のため、1906年5月に馬政局官制(勅令第121号)に基づき内閣総理大臣の管理下に馬政局が設置された。さらに馬政委員会官制に基づき、馬匹改良に関する総理大臣の諮問機関として馬政委員会が設置された。 種馬所・種馬牧場・種馬育成所の設置 1906年から1912年にかけて、全国に5つの種馬所、2つの種馬牧場、1つの種馬育成所が設置された。 国有種牡馬供用方針の策定 従来の日本の馬産は地区ごとに繁殖が行われており、馬の特徴は地区ごとに大きく異なっていた。そのことを踏まえた上で馬匹改良を実現するべく、全国の馬産地を乗馬産地、軽輓馬産地、重輓馬産地、小格輓馬産地に分類し、それぞれの馬産地における国有種牡馬の供用方針を策定した。 外国からの馬の購入 政府は1905年、日露戦争の長期化によって軍馬が枯渇することを懸念してオーストラリアから1万頭あまりの豪州馬(正式な呼称は豪州産洋種)を輸入した。日露戦争が長期化することなく終結したためそれらの馬が軍馬として用いられることはなく、約3600頭の牝馬と97頭の種牡馬を農商務省が保管し、第一期計画綱要における馬匹購入の目標達成にあてることになった。農商務省は牝馬のうち100頭を種馬牧場の繁殖牝馬、牡馬のうち86頭を種馬所の種牡馬とし、残りを民間に貸下した。 豪州馬は馬匹改良に大きな役割を果たし、1914年に開催された東京大正博覧会に出品された54頭の内国産の馬匹のうち40頭を豪州産牝馬の産駒が占めるなど高い評価を受けた。 その後も政府は外国から馬の輸入を計画したが、日露戦争後にイギリスなど主要な馬産国は日本の軍備を警戒して種牡・牝馬の輸出を控えるようになった。やむを得ず各国から様々な品種の馬を少しずつ導入することになり、日本国内では多様な品種が乱立することになった。たとえば、軽種についてはアングロアラブおよびアラブ種をギドランや内国産のアングロアラブで、中間種についてはノーニウス(英語版)をアングロノルマン(英語版)やハクニーで代用するなどの措置がとられた。 去勢の実施 日本軍の軍馬は気性が荒く、1899年の義和団の乱において共同作戦を行った欧米各国の軍人からは「馬のような恰好をした猛獣」と評される有様であった。対策として軍馬に去勢を施す案が検討されるようになり、1901年に原則としてすべての3歳以上15歳未満の牡馬に去勢を施すことを義務付ける去勢法が発布された。しかし去勢技術員の養成など制度を整備するための準備期間を確保するために同法の施行は延期された。 第一期計画の計画綱領が発表されたのはその最中のことであった。日露戦争の勃発により施行はさらに延期され、初めて同法が適用されたのは1917年のことであった。同法の施行が延期されていた間に政府は去勢奨励金を交付して去勢の普及に努めていたが、この間に去勢への理解や最新の去勢手術への安心感が馬の所有者に広がっていたため、この年全国1123か所で行われた去勢に対する評判は良好であった。 1906年から1916年まで年間約9000頭だった去勢頭数は1917年以降、おおむね年30000頭以上に増加した。
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