秀吉の支配計画とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 秀吉の支配計画の意味・解説 

秀吉の支配計画

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 18:42 UTC 版)

文禄・慶長の役」の記事における「秀吉の支配計画」の解説

5月16日漢城府攻略朝鮮国王逃亡知らせ受けた秀吉は、同日付で、通事通訳)を渡海させ、使者派遣して朝鮮国王が)叛逆して逃亡した理由聞き堪忍分与えるので、諭示して連れ戻すようにと命じた。そして、自らの渡海準備急がせている。先駈勢が一旦止まり、すぐに追撃しなかったのは、秀吉指示出陣待っていたからであろう朝鮮国王逃亡は、漢城府降伏迫れると期待していた日本軍にとって残念なことであったが、遠征目的あくまでも征服であり、準備段階一つに過ぎなかった。特に動揺などはなく、むしろ秀吉意気昂揚したようで、次なる計画夢想したことが2つ文書から分かっている。 豊太閤三国処置早計 加賀藩4代藩主前田綱紀残した文書中に豊太閤三国処置早計』と彼が表題したものがある。これは天正20年1592年5月18日付の関白豊臣秀次宛の朱印状で、25箇条からなる覚書であった。ほとんどの条項は、来年1593年)の正月2月頃には出陣することになるとした秀次への、非常に細々とした指図書かれていたが、中には驚くような計画披露されていて、明国征服したら秀次を大唐関白の職に任ずるとか、大唐都(北京)に遷都して明後年2年後)には後陽成天皇がその地に行幸できるようにするとか、天皇北京周辺10カ国を進呈して同行する諸公家衆にも知行与えること、天皇北京移った後の日本の天皇としては若宮良仁親王)か八条宮(弟の智仁親王)のいずれでも良いから即位してもらうことなどが書かれてあった。人事構想に関しては、8月までに羽柴秀俊丹波中納言)も出征させるとして、彼は朝鮮配置する名護屋留守居役とするとし、朝鮮補佐役は宮部継潤日本関白の職には、羽柴秀保大和中納言)か羽柴秀家(備前宰相)のどちらか任ずるとか、朝鮮羽柴秀勝岐阜宰相)か備前宰相任せるならば、丹波中納言九州に置くことにするなどとも書いていた。前田綱紀が「早計(=早まった考え)」と題したのは、彼が後世人物で、このようなことは実現するはずもなかったことを知っていたからに他ならない。 この文書は、具体的かつ仔細指示と、空想に近い漠然とした指示混在しているのが特徴である。この書簡書かれ前日名護屋城では戦勝を祝う大祝宴があったので、徳富蘇峰などは秀吉はまだ酔い醒めていなかったのではないか指摘したほどである。 金以来都城首都として北京の歴史研究している東洋史学者新宮学は、明の永楽帝による北京遷都理由として、政治的経済的な南北統一」と前代の元(モンゴル帝国)の登場による中華世界拡大によって元に代わる王朝としてその実現を迫られた「華夷一統」という2つ目的を果たすための要となる地点北京であったとし、更に実際に冊封体制再興という形で後者実現された(日本遣明使節を北京派遣している)ことを指摘した上で秀吉のこの構想天皇冊封体制中心地と言える北京置こうとしている時点明による冊封体制枠組みから一歩出ておらず、当時東アジア秩序単なる焼き直ししかない評価している。 組屋文書 組屋文書とは、若狭国小浜町組屋氏宅に所蔵されていた文書で、元は屏風の下張であったものを、江戸時代国学者伴信友発見して著書中外経緯伝』に載せたことから世に知られるようになった仮名文字書かれたこの文書は、名護屋陣中にいた秀吉右筆山中長俊が、大坂城にいた女中東殿局と客人局)に宛てた5月18日の手紙で、先の豊太閤三国処置の裏となっただけでなく、補完するような内容であったため、両文書はしばし同一のものと混同される。 この文書にも驚くべき内容いくつかあり、秀吉当月5月中に渡海して朝鮮に向かう意向で、少なくとも年内1592年)には北京入城するつもりであった明記されているほか、北京拠点築いた後は誰か任せて自らは寧波居を構えるとあり、これは豊太閤三国処置内容合わせて考えれば北京天皇と秀次を置いて京都のようにし、自らは交通の要衝である(と当時日本人考えていた)寧波根拠地として大坂のようにしようと考えていたと思われる。また(小西行長加藤清正といった)先駆衆は天竺インドの意味)に近い所領与えて天竺領土切り取り自由の許可与えるつもりであるとも書かれていた。天竺に関する言及豊太閤三国処置にはない。 2文書から明らかな外征計画について、安国寺恵瓊のような楽観的な賛同者がいた反面、(星州恵瓊から十一カ所もの秀吉宿泊施設普請命令伝達された)毛利輝元などは一貫した悲観論者であった前述組屋文書にも、毛利輝元長宗我部元親島津義弘大友吉統らは、国替えして朝鮮1020倍の知行増を約束されたが迷惑がったと書かれていて、輝元は10倍もの加増があれば現在の領地統治覚束なくなると辞退したとする内容があったが、異国所領魅力感じた大名はむしろ少数だったようである。輝元は身内宍戸覚隆に宛てた5月26日星州からの手紙ではさらに具体的に書いていて、朝鮮は弱いが土地広く言葉通じ統治するには困難だ指摘し意思の疎通一々通訳がいる煩わしさ格別であるとした。また10万人の朝鮮兵は50人の日本兵で打ち崩せるほど弱く中国兵朝鮮兵よりももっと弱いと聞いているが、中国土地朝鮮よりももっと広大であるので明の統治はより困難であろうとし、敵は日本軍が来るとすぐ山に逃げるが、少人数通行していると弓で狙撃し襲ってくるなど困難な相手で、城も国内無数にあると長期化する恐れ示唆していた。侵入した日本軍現地兵糧奪って食を賄っていることで、朝鮮人の間で飢餓広がりつつあることも指摘した部分もあったが、これは後に起こる農民反乱原因ともなった。さらに朝鮮の都は異常に多く水はけも悪いうえに、やたらと牛が多く衛生環境劣悪ある様子も書いており、自身も健康を害していると綴っていた。これらの点は、後から考えれば、すべて遠征失敗した原因であり、当初より予想されていたことであったと言えるかもしれない

※この「秀吉の支配計画」の解説は、「文禄・慶長の役」の解説の一部です。
「秀吉の支配計画」を含む「文禄・慶長の役」の記事については、「文禄・慶長の役」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「秀吉の支配計画」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「秀吉の支配計画」の関連用語

秀吉の支配計画のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



秀吉の支配計画のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの文禄・慶長の役 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS