秀吉の支配計画
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5月16日、漢城府攻略と朝鮮国王逃亡の知らせを受けた秀吉は、同日付で、通事(通訳)を渡海させ、使者を派遣して(朝鮮国王が)叛逆して逃亡した理由を聞き、堪忍分 を与えるので、諭示して連れ戻すようにと命じた。そして、自らの渡海の準備を急がせている。先駈勢が一旦止まり、すぐに追撃しなかったのは、秀吉の指示や出陣を待っていたからであろう。朝鮮国王の逃亡は、漢城府で降伏を迫れると期待していた日本軍にとって残念なことであったが、遠征の目的はあくまでも明征服であり、準備段階の一つに過ぎなかった。特に動揺などはなく、むしろ秀吉は意気昂揚したようで、次なる計画を夢想したことが2つの文書から分かっている。 豊太閤三国処置太早計 加賀藩第4代藩主の前田綱紀が残した文書の中に『豊太閤三国処置太早計』と彼が表題したものがある。これは天正20年(1592年)5月18日付の関白豊臣秀次宛の朱印状で、25箇条からなる覚書であった。ほとんどの条項は、来年(1593年)の正月か2月頃には出陣することになるとした秀次への、非常に細々とした指図が書かれていたが、中には驚くような計画が披露されていて、明国を征服したら秀次を大唐関白の職に任ずるとか、大唐都(北京)に遷都して明後年(2年後)には後陽成天皇がその地に行幸できるようにするとか、天皇に北京周辺の10カ国を進呈して(同行する)諸公家衆にも知行を与えること、天皇が北京に移った後の日本の天皇としては若宮(良仁親王)か八条宮(弟の智仁親王)のいずれでも良いから即位してもらうことなどが書かれてあった。人事構想に関しては、8月までに羽柴秀俊(丹波中納言)も出征させるとして、彼は朝鮮に配置するか名護屋の留守居役とするとし、朝鮮の補佐役は宮部継潤。日本関白の職には、羽柴秀保(大和中納言)か羽柴秀家(備前宰相)のどちらかを任ずるとか、朝鮮を羽柴秀勝(岐阜宰相)か備前宰相に任せるならば、丹波中納言は九州に置くことにするなどとも書いていた。前田綱紀が「早計(=早まった考え)」と題したのは、彼が後世の人物で、このようなことは実現するはずもなかったことを知っていたからに他ならない。 この文書は、具体的かつ仔細な指示と、空想に近い漠然とした指示が混在しているのが特徴である。この書簡が書かれた前日に名護屋城では戦勝を祝う大祝宴があったので、徳富蘇峰などは秀吉はまだ酔いが醒めていなかったのではないかと指摘したほどである。 金以来の都城・首都としての北京の歴史を研究している東洋史学者の新宮学は、明の永楽帝による北京遷都の理由として、政治的・経済的な「南北統一」と前代の元(モンゴル帝国)の登場による中華世界の拡大によって元に代わる王朝としてその実現を迫られた「華夷一統」という2つの目的を果たすための要となる地点が北京であったとし、更に実際に冊封体制の再興という形で後者が実現された(日本も遣明使節を北京に派遣している)ことを指摘した上で、秀吉のこの構想は天皇を冊封体制の中心地と言える北京に置こうとしている時点で明による冊封体制の枠組みから一歩も出ておらず、当時の東アジア秩序の単なる焼き直しでしかないと評価している。 組屋文書 組屋文書とは、若狭国小浜町の組屋氏宅に所蔵されていた文書で、元は屏風の下張であったものを、江戸時代の国学者伴信友が発見して著書『中外経緯伝』に載せたことから世に知られるようになった。仮名文字で書かれたこの文書は、名護屋陣中にいた秀吉の右筆山中長俊が、大坂城にいた女中(東殿局と客人局)に宛てた5月18日付の手紙で、先の豊太閤三国処置の裏付となっただけでなく、補完するような内容であったため、両文書はしばしば同一のものと混同される。 この文書にも驚くべき内容がいくつかあり、秀吉は当月(5月)中に渡海して朝鮮に向かう意向で、少なくとも年内(1592年)には北京に入城するつもりであったと明記されているほか、北京に拠点を築いた後は誰かに任せて自らは寧波に居を構えるとあり、これは豊太閤三国処置の内容と合わせて考えれば、北京に天皇と秀次を置いて京都のようにし、自らは交通の要衝である(と当時の日本人は考えていた)寧波を根拠地として大坂のようにしようと考えていたと思われる。また(小西行長や加藤清正といった)先駆衆は天竺(インドの意味)に近い所領を与えて、天竺の領土に切り取り自由の許可を与えるつもりであるとも書かれていた。天竺に関する言及は豊太閤三国処置にはない。 2文書から明らかなる外征計画について、安国寺恵瓊のような楽観的な賛同者がいた反面、(星州で恵瓊から十一カ所もの秀吉用宿泊施設の普請命令を伝達された)毛利輝元などは一貫した悲観論者であった。前述の組屋文書にも、毛利輝元、長宗我部元親、島津義弘、大友吉統らは、国替えして朝鮮で10倍20倍の知行増を約束されたが迷惑がったと書かれていて、輝元は10倍もの加増があれば現在の領地の統治も覚束なくなると辞退したとする内容があったが、異国の所領に魅力を感じた大名はむしろ少数だったようである。輝元は身内の宍戸覚隆に宛てた5月26日付星州からの手紙ではさらに具体的に書いていて、朝鮮は弱いが土地が広く言葉も通じず統治するには困難だと指摘し、意思の疎通に一々通訳がいる煩わしさは格別であるとした。また10万人の朝鮮兵は50人の日本兵で打ち崩せるほど弱く、中国兵は朝鮮兵よりももっと弱いと聞いているが、中国の土地は朝鮮よりももっと広大であるので明の統治はより困難であろうとし、敵は日本軍が来るとすぐ山に逃げるが、少人数で通行していると弓で狙撃して襲ってくるなど困難な相手で、城も国内に無数にあると長期化する恐れも示唆していた。侵入した日本軍が現地の兵糧を奪って食を賄っていることで、朝鮮人の間で飢餓が広がりつつあることも指摘した部分もあったが、これは後に起こる農民反乱の原因ともなった。さらに朝鮮の都は蠅が異常に多く、水はけも悪いうえに、やたらと牛が多く、衛生環境が劣悪である様子も書いており、自身も健康を害していると綴っていた。これらの点は、後から考えれば、すべて遠征が失敗した原因であり、当初より予想されていたことであったと言えるかもしれない。
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