秀吉の没後とは? わかりやすく解説

秀吉の没後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 12:01 UTC 版)

高台院」の記事における「秀吉の没後」の解説

慶長3年8月18日1598年9月18日)に秀吉没すると、淀殿連携して豊臣秀頼後見あたった武断派の七将が石田三成襲撃した時に徳川家康は最も中立的見られている北政所仲裁受けたことにより、結論客観性正統性)が得られ家康評価相対的に高まった評価されている。慶長4年1599年9月大坂城退去し古くから仕えてきた奥女中祐筆孝蔵主とともに京都新城移住した(「義演准后日記」「言経卿記」)。関ヶ原の戦い前に京都新城や塀を破却するなど縮小されたが、これには城としての体裁消し去るという意味があったものと思われるこのころ北政所立場は微妙で、合戦直後9月17日には大坂から駆け付けた兄の木下家定護衛により准后勧修寺晴子屋敷駆け込むという事件もあった。 関ヶ原合戦後は、引き続き京都新城跡の屋敷住み豊国神社にたびたび参詣するなど秀吉供養専心した(「三本木」(現京都御苑南西付近)に隠棲したとの説もあるが根拠不明)。元和初期様子描いたとされる地図「中むかし公家町之図」ではほぼ現在の京都御苑仙洞御所大宮御所エリアを「高台院殿(屋敷)」とし、その南方には使用人住居思われる高台院殿町屋」が建ち並んでおり、隠棲後の暮らしぶり一端を伺わせる。秀吉から河内国内に与えられていた大名並み1万5,672石余の広大な領地は、合戦後慶長9年養老料として徳川家康から安堵されている。この時石高1万6,346石余に微増慶長8年1603年)、養母の死と、秀吉遺言でもあった秀頼と千姫婚儀見届けたことを契機落飾朝廷から院号賜り、はじめ高台院快陽心尼、のちに改め高台院湖月心尼と称した慶長10年1605年)、実母秀吉冥福を祈るために家康後援のもと、京都東山高台寺建立し、その門前にも屋敷構えた大坂の陣では、「高台院をして大坂にいたらしむべからず」という江戸幕府意向で、甥・木下利房護衛監視役として付けられた。そして、身動き封じられたまま元和元年1615年)、大坂の陣により夫・秀吉とともに築いた豊臣家滅びてしまう(一方、利房は高台院足止めした功績により備中国足守藩主に復活した。)。だが徳川家との関係極めて良好で、徳川秀忠高台院屋敷訪問や、高台院主催による二条城内での能興行が行われた記録残っている。またなお公家一員としての活動も活発でこのころ高台院(「政所」)からたびたび贈り物御所届けられたことが、『御湯殿上日記』から知れる寛永元年9月6日1624年10月17日)、高台院屋敷にて死去享年については767783などの諸説がある。なお最晩年木下家から利房の一子・利次(一説に利三とも)を、豊臣家羽柴家)の養子として迎えており、遺領1万7,000石のうち近江国内3,000石分は利次によって相続された。 墓所京都市東山区高台寺遺骨高台寺霊屋高台院木像の下に安置されている。

※この「秀吉の没後」の解説は、「高台院」の解説の一部です。
「秀吉の没後」を含む「高台院」の記事については、「高台院」の概要を参照ください。

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