室町時代~江戸時代以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/24 05:14 UTC 版)
美濃氏家氏は美濃守護の土岐氏やその守護代の斎藤氏と結びつくことによって、大垣の地の周辺にその勢力を広げた。上述の直元(卜全)の代に、土岐氏が追放され、斎藤氏もまた弱体化すると、尾張織田氏に属し、その家臣として勢力を保全した。直元の戦死後、子の直昌(直通)は引き続き織田氏の家臣として仕え、本能寺の変後は新たに勃興した羽柴秀吉に仕え活躍した。直通の没後は弟の行広が跡を継いだが、秀吉の没後、関ヶ原の戦いの際に西軍についたため改易となり、浪人となった行広は大坂の陣で大坂方につき戦死した。なお、行広の弟の行継の子孫が関ヶ原の戦い後に熊本藩に仕え、明治維新を迎えた。 陸奥氏家氏は代々大崎氏の宿老として家中に重きをなし、岩出山城を領したが、戦国時代になると大崎氏にしばしば反抗的な姿勢をとるようになる。奥州仕置によって大崎氏が滅亡した後、氏家吉継は伊達氏に仕えたもののまもなく没し、氏家氏の直系は断絶した。のち遠縁の者によって家名が再興され、明治維新まで存続した。 羽州管領斯波兼頼が建てた最上氏の重臣、氏家定直を始めとする一族は、斯波兼頼が若年のおりに後見を務めた氏家道誠の縁者が、兼頼に従って出羽に入った後裔と思われる。戦国時代、氏家守棟は最上義守や最上義光の家老として活躍した。しかし、子の氏家光棟は天正16年(1588年)の十五里ヶ原の戦いで戦死したため嫡流は途絶え、最上氏の一族成沢氏から光氏を迎え、名跡を後に伝えた。最上氏改易後、子孫は毛利氏に仕え幕末まで続いた。
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