室町時代:武士の男色
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「日本における同性愛」の記事における「室町時代:武士の男色」の解説
「衆道」も参照 平安末期には武士社会は台頭していたが、中世室町時代には武士の間で男色が盛んになり、その主従関係の価値観と重ね合わせられた。後にこの関係は「衆道」と呼ばれる(後述)。 三代将軍・足利義満は能役者の世阿弥が少年だった頃、彼を寵愛した。この二人の男色関係は芸能の発展において多大な影響を与えたとされている。また六代将軍・足利義教は赤松貞村という武士を愛して領地を加増した。後、同族の赤松満祐にこれを不満に思われたことも理由の一つとなり、義教は暗殺される。八代将軍・足利義政は有馬持家、烏丸資任ら寵童を側に置いた。その他の武士にも男色を風雅の道として行う者がいた。 この時代に成立した能や狂言には男色がとても多く取り入れられており、代表的なものに『菊慈童』、『花月』などがある。また『幻夢物語』、『嵯峨物語』、『鳥辺山物語』などの稚児物語が多くつくられ、内容は公家や寺院におけるものが多くを占める。これは物語をつくる能力が公家らに独占されていたからだとされ、武士の間で男色が少なかったことを意味しない。
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