室町時代後期の垣屋氏とは? わかりやすく解説

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室町時代後期の垣屋氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/13 06:32 UTC 版)

垣屋氏」の記事における「室町時代後期の垣屋氏」の解説

明徳の乱以来着々と力を蓄えていた垣屋氏山名家筆頭家老の座につき、以後山名氏を陰で支えることとなる。 このころから垣屋氏越前守熙続(長男)・ 越中守熙知(次男)・ 駿河守豊茂(三男)に別れそれぞれ越前守家は楽々前城、越中守家は宵田城駿河守家は轟城を受け持った。なお彼らは 垣屋弾正の孫、すなわち遠江入道の子である。 明徳の乱活躍した垣屋弾正の孫の代になると所領は西気谷から竹野谷へと拡げられ、垣屋氏勢力扶植基盤確立した嘉吉の乱恩賞山名宗全播磨守護職を賜ったとき、その代官として播磨守護代に任命されたのは垣屋越前守熙続であった。熙続の名は『但馬大岡寺文書』にもみえている。『校補但馬考』がもっと整然としているとする『因幡垣屋系図』には越中守豊春越前守熙続もその名を欠いている。おそらく、垣屋氏多く庶子家抱え巨大な武士団構成してたようだ。 井垣紀州本『垣屋系図によれば文明8年1476年)に熙続が死去すると、後を垣屋豊遠が継ぐが、文明11年1479年)の毛利次郎の乱鎮圧加わった後の活動見られないため同乱の鎮圧中に戦死したとみられるその後継者である垣屋宗続も文明17年1485年)に山名政豊播磨遠征敗れた際に討死している(豊岡市竹野町蓮華寺所蔵垣屋代々法名」)。宗続の弟や嫡男もこの時戦死したらしく、宗続の別の息子である垣屋続成孫四郎)が後を継ぐが、垣屋氏一時的に衰退した

※この「室町時代後期の垣屋氏」の解説は、「垣屋氏」の解説の一部です。
「室町時代後期の垣屋氏」を含む「垣屋氏」の記事については、「垣屋氏」の概要を参照ください。

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