室町時代~江戸時代
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南北朝の争乱がおこると、観応3年(1350年)に山口の大内弘世が安芸国退治と称し、東寺の国衙分者らを糾合して東西条を押領する。貞治3年(1364年)に幕府と和解するが、守護人や国人の反乱に手をやいた幕府は大内弘世に応安元年(1368年)に東寺雑掌の沙汰で御教書を出し東西条の平定を命じ、これを口実に大内弘世が東西条を制圧する。大内氏は安芸国支配の拠点として西条御薗宇に鏡山城を築城し、西条と瀬戸内海を結ぶ黒瀬川沿いに連絡道と城塞網を築きあげた。大内氏の東西条支配は200年余りに及んだが、戦国期に台頭した毛利元就らの活躍により毛利氏がしばらくの間この地を支配することとなる。毛利氏が関ヶ原の戦い後に防長二国に移された後は、福島正則、そして浅野氏の領地となった。 江戸時代になると東西条は西国街道の宿場町として栄え、四日市宿の本陣は藩内最大の規模を誇った。東は古川、西は半尾川に挟まれた範囲を西條四日市宿という。西条の酒造が始まったのもこの頃だが、この時期には全国的に名が知られたわけではなかった。
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室町時代・江戸時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 04:57 UTC 版)
この2系統の本文のうち、鎌倉時代には「河内本」が圧倒的に優勢な状況であり、今川了俊などは「青表紙本は絶えてしまった」と述べていたほどであった。そのもっとも大きな原因は、話の筋や登場人物の心情を理解するためにはそれ自体として意味のくみとれなかったり、前後の記述に矛盾のある(ようにみえる)箇所を含んでいる「青表紙本」よりも、そのような矛盾を含んでいない(ようにみえる)「河内本」のほうが使いやすかったりしたからであると考えられている。それでも、室町時代半ばごろから藤原定家の流れを汲む三条西家の活動により、古い時代の本文により忠実だとされる「青表紙本」が優勢になり、逆に「河内本」の方が消えてしまったかのような状況になった。三条西家系統の「青表紙本」は、純粋な「青表紙本」と比べると「河内本」などからの混入がみられる本文であった。 その後、江戸時代に入ると版本による『源氏物語』の刊行が始まり、裕福な庶民にまで広く『源氏物語』が行き渡るようになってきた。「慶長古活字版」「伝嵯峨本」や「元和本」のような無印源氏・素源氏と呼ばれるようなものからはじまり、「絵入源氏物語」「首書源氏物語」「源氏物語湖月抄」と次々と出版されていった版本の本文は、当時、もっとも有力であった広い意味での「青表紙本」系統の三条西家系統の本文に、さらに「河内本」や「別本」からの混入がみられる本文であった。写本や版本によって本文が異なることはこの時代すでに知られており、本居宣長などもその点についての指摘を行ったこともあるが、本格的な本文研究に進むことはなかった。この時代、良質な写本の多くは大名や公家、神社仏閣などに秘蔵されており、どこがどのような写本を所蔵しているのかということすらほとんどの場合明らかではなかったため、複数の写本を実際に手にとって具体的に比較することは事実上不可能であった。源氏物語への評価としては、源氏物語によって朝廷が軟弱化して衰微したとして源氏物語を非難する天皇(後光明天皇)が現れた。 なお、江戸時代における『源氏物語』の普及には、ダイジェスト版ともいうべき各種版本(『源氏小鏡』(3巻、1657年)、『十帖源氏』(10巻、1661年)、『おさな源氏』(10巻、1666年)、『源氏物語忍草』(10巻、1688年))も貢献していたと考えられる。
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