室町時代 - 江戸時代の下冷泉家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 06:49 UTC 版)
「冷泉家」の記事における「室町時代 - 江戸時代の下冷泉家」の解説
冷泉為尹の次男・持為は、冷泉家の当主にはならなかったが、その実力を足利将軍家から認められ、独立した一家をもうける事が許され、兄・為之の冷泉家(上冷泉家)とは別に同じ冷泉の家名を名乗る事も許された。所領及び家に伝わる文書はこの時二分された。『十六夜日記』に現れる播磨細川庄は、下冷泉家が相続する事となった。 下冷泉家の冷泉持為とその子・政為は、それぞれ将軍・足利義持、足利義政に厚遇され、偏諱まで賜った。この時期においては、下冷泉家が冷泉家の本流だった。政為は歌人として非常に優れ歌集「碧玉集」は、後の歌人たちの手本とされた。 所領地の関係で播磨守護の赤松氏とも親しい関係にあったが、戦国時代には戦国大名に所領を横領されるのを防ぐため、先述の播磨細川庄に下向し直接当主が荘園を管理していた。しかし、政為の曾孫・冷泉為純とその子・為勝が戦国大名の別所氏に殺され荘園も横領されたために、為勝の弟・為将は京都に戻り下冷泉家を再興した。なお朱子学者の藤原惺窩は為勝の弟で為将の兄である。惺窩は下冷泉家の当主にはならなかったが、その子・為景が為将の後を受けて当主となった。下冷泉家は播磨下向時以来、別所氏と敵対する豊臣秀吉と親しい間柄だったため、朝廷において関白太政大臣となった秀吉は下冷泉家の京都における再興に協力を惜しまなかった。 江戸時代には毛利氏及び加藤氏(嘉明系)と姻戚関係があった。
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