室町時代 - 江戸時代の上冷泉家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 06:49 UTC 版)
「冷泉家」の記事における「室町時代 - 江戸時代の上冷泉家」の解説
室町時代になると、御子左流においては、二条家は大覚寺統と濃い姻戚関係にあったため、大覚寺統が衰えると勢力は弱まった。それに伴い、京都においても、冷泉家が活動を始めた。しかし二条派が依然として主流派である事には変わりがなかった。 冷泉為尹は応永23年(1416年)、次男・持為に播磨国細川荘等を譲って分家させた。これによって、長男・為之を祖とする冷泉家と次男・持為を祖とする冷泉家に分かれた。二つの冷泉家を区別するために為之の家系は上冷泉家、持為の家系は下冷泉家と呼ぶようになった。 戦国時代には、上冷泉家は北陸地方の能登国守護・能登畠山氏や東海地方の駿河国守護今川氏を頼り地方に下向しており、山城国(京都)にはいなかった。織田信長の時代には京都に戻ったが、豊臣秀吉が関白太政大臣に任命された天正14年(1586年)には為満が勅勘を蒙り、再び地方に下った。上冷泉家の家督は中山家から為親が新たに当主として迎えられ冷泉為親を名乗る。 しかし秀吉が亡くなった慶長3年(1598年)、徳川家康の執成しによって前当主であった為満が都へ戻り再び当主となることが出来たとされる。 かつて秀吉は天皇が住む御所の周辺に公家達の屋敷を集め公家町を形成したが、上冷泉家は公家町が完全に成立した後に許されて都に戻ったため、公家町内に屋敷を構える事ができなかった。旧公家町に隣接した現在の敷地は家康から贈られたものである。 為満の復帰により為親は上冷泉家の当主でなくなったが別に新たに中山冷泉家を興せることとなり、その新たな堂上家の当主となった。 江戸時代には上冷泉家は徳川将軍家に厚遇されて繁栄した。特に武蔵国江戸在住の旗本に高弟が多くいた。仙台藩主・伊達氏と姻戚でもあった。
※この「室町時代 - 江戸時代の上冷泉家」の解説は、「冷泉家」の解説の一部です。
「室町時代 - 江戸時代の上冷泉家」を含む「冷泉家」の記事については、「冷泉家」の概要を参照ください。
- 室町時代 - 江戸時代の上冷泉家のページへのリンク