江戸時代前期:衆道の確立、男色文化全盛へとは? わかりやすく解説

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江戸時代前期:衆道の確立、男色文化全盛へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 07:34 UTC 版)

日本における同性愛」の記事における「江戸時代前期:衆道の確立、男色文化全盛へ」の解説

衆道」および「陰間茶屋」も参照 男色武家作法融合したものを衆道という。「若衆道」の略語で、いつから使われ出したかは分かっていない。しかし現在確認できているものでは承応二年(1653年)の江戸幕府の「市廛商估文武市籍寄名者令條(遊女隠賣女)」に出てくるものが、幕府公式令條としては初出だとされている 。その為、武士の男色鎌倉時代にはみられ、室町時代盛んになったが、衆道呼ばれるようになったのは江戸時代からと推測されている。 徳川将軍15代のうち、7人に衆道関係があったことが知られており、中でも徳川三代将軍・家光と五代将軍綱吉衆道耽溺がよく知られている。家光余りに少年ばかりを愛し女性を近づけようとしなかったので、乳母春日局が心配したという逸話があり、その結果大奥ができたといわれている。綱吉多くお小姓抱えていたが、江戸城に「之間(きりのま)」という男色の間を設け美貌能役者旗本の子弟らとの閨房としても使った綱吉囲った美少年は「之間御番」と呼ばれ元禄4年1691年)にはその中でも特に容姿優れた美少年だけを集めて御殿」に住まわせた。綱吉の下で権勢振るった柳沢吉保少年時代綱吉の寵童だったことが知られている。 また江戸初期衆道とは別に若衆歌舞伎代表される売色化した新しい形男色文化開花した。「陰間遊びが町人の間で流行し遊女ならぬ色若衆呼ばれる少年達多数現れ少年置いた陰間茶屋繁盛した。この種の売色衆道室町後半からあったが、江戸時代流行して根付いた少年置いた遊郭は、京、大坂江戸多数あり、京は宮川町大坂道頓堀など、江戸で日本橋葭町湯島天神門前町などに集中した男色当時町人文化にも好んで題材とされ、井原西鶴の『好色一代男』1682年)には主人公一生のうちに交わった人数を「たはふれし女三千七百四十二人小人少年)のもてあそび七百二十五人と書かれている西鶴は他にも『男色大鑑』、『武士伝来記』で男色扱っており、近松門左衛門1653年-1725年)も男色取り上げた作品書いている。こうして僧侶公家武士続いてきた男色町人にも広がって売色としての男色確立したこの様近代より前日本男色は、倒錯的行為としてや、女色比較して倫理的に問題がある行為見なされることはなかった。 ただし江戸初期にあっても、諸藩において家臣衆道厳しく取り締まる動き現れた。特に姫路藩池田光政1609年-1682年)は家中での衆道厳しく禁じ違反した家臣追放処している。また慶安5年(1652年)には少年売色盛んだった若衆歌舞伎江戸町奉行所禁止された。

※この「江戸時代前期:衆道の確立、男色文化全盛へ」の解説は、「日本における同性愛」の解説の一部です。
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