江戸時代前期:衆道の確立、男色文化全盛へ
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「日本における同性愛」の記事における「江戸時代前期:衆道の確立、男色文化全盛へ」の解説
「衆道」および「陰間茶屋」も参照 男色に武家の作法が融合したものを衆道という。「若衆道」の略語で、いつから使われ出したかは分かっていない。しかし現在確認できているものでは承応二年(1653年)の江戸幕府の「市廛商估并文武市籍寄名者令條(遊女并隠賣女)」に出てくるものが、幕府の公式令條としては初出だとされている 。その為、武士の男色は鎌倉時代にはみられ、室町時代に盛んになったが、衆道と呼ばれるようになったのは江戸時代からと推測されている。 徳川将軍15代のうち、7人に衆道関係があったことが知られており、中でも徳川三代将軍・家光と五代将軍・綱吉の衆道耽溺がよく知られている。家光は余りに少年ばかりを愛し女性を近づけようとしなかったので、乳母の春日局が心配したという逸話があり、その結果大奥ができたといわれている。綱吉は多くのお小姓を抱えていたが、江戸城に「桐之間(きりのま)」という男色の間を設け、美貌の能役者や旗本の子弟らとの閨房としても使った。綱吉が囲った美少年は「桐之間御番」と呼ばれ、元禄4年(1691年)にはその中でも特に容姿の優れた美少年だけを集めて「桐御殿」に住まわせた。綱吉の下で権勢を振るった柳沢吉保も少年時代に綱吉の寵童だったことが知られている。 また江戸初期は衆道とは別に、若衆歌舞伎に代表される、売色化した新しい形の男色文化が開花した。「陰間」遊びが町人の間で流行し、遊女ならぬ色若衆と呼ばれる少年達が多数現れ、少年を置いた陰間茶屋が繁盛した。この種の売色衆道は室町後半からあったが、江戸時代に流行して根付いた。少年を置いた遊郭は、京、大坂、江戸に多数あり、京は宮川町、大坂は道頓堀など、江戸では日本橋の葭町や湯島天神門前町などに集中した。 男色は当時の町人文化にも好んで題材とされ、井原西鶴の『好色一代男』(1682年)には主人公が一生のうちに交わった人数を「たはふれし女三千七百四十二人。小人(少年)のもてあそび七百二十五人」と書かれている。西鶴は他にも『男色大鑑』、『武士伝来記』で男色を扱っており、近松門左衛門(1653年-1725年)も男色を取り上げた作品を書いている。こうして僧侶、公家、武士と続いてきた男色は町人にも広がって、売色としての男色が確立した。この様に近代より前の日本で男色は、倒錯的行為としてや、女色と比較して倫理的に問題がある行為と見なされることはなかった。 ただし江戸初期にあっても、諸藩において家臣の衆道を厳しく取り締まる動きも現れた。特に姫路藩主池田光政(1609年-1682年)は家中での衆道を厳しく禁じ、違反した家臣を追放に処している。また慶安5年(1652年)には少年売色が盛んだった若衆歌舞伎も江戸町奉行所に禁止された。
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