江戸時代前期
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清正が慶長16年(1611年)に没すると、本妙寺は清正の廟の側に移転して清正の菩提寺としての要素を持つようになる。ところが、清正の子・忠広が、寛永9年(1632年)に改易処分された。新しく領主になった細川氏は関ヶ原の戦いでともに東軍として戦った清正への配慮から本妙寺を従前どおりに庇護したが、藩主の菩提寺としての性格を喪失した。このため、本妙寺は所属する六条門流の本寺にあたる京都の本圀寺の協力を得ながら肥後の民衆の教化に力を注ぐことになった。 清正が信仰の対象となった背景については2つの説があって決着をみていない。圭室諦成に代表される、清正の死後20年ほどで改易されその後直系が断絶したことなどを原因として清正が「祟り神」となりその鎮魂のために祭祀が行われたとする説と、池上尊義に代表される、本妙寺を中心とする六条門流の民衆への布教の反映や清正時代の新田開発や治水事業などの功績によって「顕彰神」として民衆から崇敬されたとする説である。 清正の死から半世紀ほど過ぎた寛文年間に成立した『続撰清正記』には、清正は六十六部回国聖である「清正房」の生まれ変わりで、加藤清正の没後に廟の工事をしていると清正房の遺骸の入った石棺が見つかったとする伝承を紹介している。同書の著者はこの伝承は史実ではないと否定しているものの、清正の没後50年にしてこうした伝承が伝えられるほどの清正公信仰が既に成立していたことを示していると考えられている。
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江戸時代前期
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慶長17年(1612年)の禁令によりキリシタンを厳しく罰した幕藩権力は、寛永年間の島原天草一揆によってその脅威を再認識し、1640年代から50年代にかけて宗門改の井上政重の指導で全国的なキリシタンの摘発を進め、17世紀中期には宗門改の全国的制度化が実現した。 その過程で、大村(郡崩れ)・豊後(豊後崩れ)・美濃と尾張(濃尾崩れ)などで多くのキリシタンが摘発された。これらの「崩れ」では、被疑者となった信徒たちは「切支丹」と認定されて処刑された。幕府はこれを契機として万治2年(1659年)に五人組制度と檀那寺の設定を、万治2年(1664年)には宗門改の設置を諸藩に指示、天領には宗門人別改帳の作成を命じた。これらの措置によって、人別改や寺請制度によってキリシタンでないことを証明する宗門改制度が全国に成立した。
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江戸時代前期
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8月9日に神輿が津八幡宮より八幡町の御旅所へ遷り、7日間にわたって行われた。(神輿や行列は15日に齋行)
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江戸時代前期
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慶長5年(1600年)秀吉の死後、豊臣氏への恩義から徳川家康の専横を「直江状」という文書によって弾劾し徳川氏への宣戦布告に及んだ。会津討伐を受けたが、家康は小山で石田三成挙兵の報に接してい引き返し、上杉軍は直江兼続を総大将として米沢城より北上し東軍最上氏を攻める。しかし、関ヶ原の戦いでの西軍の敗戦により、軍を米沢城へと引き上げた。これらの戦いにより上杉氏は置賜地方と陸奥国伊達郡・信夫郡30万石(実高51万石)に減封され、米沢を居城(信達(しんたつ)両郡の福島城・梁川城には本庄氏・須田氏・芋川氏などを置く)とした。以後、明治維新まで米沢藩上杉氏の居城となった。 慶長13年(1608年)景勝は兼続に命じ城の大改修を行い、慶長18年(1613年)輪郭式の縄張りを持つ城が完成した。大勢の家臣団はなお城下に収まりきれず、城下近郊の原野であった東原・南原に配され、下級家臣の侍町「原方」が形成されたのも米沢藩の特色である。 寛文4年(1664年)3代綱勝が嗣子を定めないまま急死し、綱憲が末期養子として認められ藩は存続したが石高は15万石(実高28万石)に半減された。しかし、石高が減ったのに、藩士の召し放ち(解雇)が行われず、藩の財政は更に逼迫することとなった。城外には新たに原方と呼ばれる地域を設置し、城下に収容できない下級藩士を配置し、半農生活を営ませた。
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江戸時代前期
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男性の髪型はひっつめで、後の銀杏髷に近い形が主流。女性の髪型は立兵庫、元禄島田、元禄勝山等、細長い髪型が主流で、髱も鴎髱、鶺鴒髱等、後ろに突き出す形が流行した。
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江戸時代前期
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天正18年(1590年)8月朔日徳川家康は江戸に入った、そこには荒れ果てた江戸城があり、茅葺の家が100軒ばかり大手門の北寄りにあった。城の東には低地があり街区の町割をしたならば10町足らず、しかも海水がさしこむ茅原であった。西南の台地はカヤやススキの野原がどこまでも続き武蔵野につらなった。城の南は日比谷の入り江で、沖合に点々と砂州があらわれていた。それから20年を経て慶長14年(1609年)に訪れたドン・ロドリゴの記すところによれば、はやくも江戸の人口は15万となり京都の半分くらいであったという。この発展を続ける江戸の町の消費需要をまかなうためには、利根川の水運をはじめとする物流路の整備が不可欠であった。 家康は伊奈忠次を関東郡代に任じ、関東周辺の河川改修にあたらせた。以後、忠治、忠克と伊奈氏3代により、利根川の常陸川河道(銚子河口)への通水が行われた。
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江戸時代前期
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元和5年8月27日(1619年10月4日)、分部光信(光嘉の養子)は伊勢国内2万石の領地を近江国高島郡・野洲郡内に移され、大溝を居所とした。これにより大溝藩が立藩した。分部家の近江への移封を「大坂の陣の恩賞」とする説明もあるが、紀州藩の成立により伊勢国内の領地が再編された余波ともされる)。 光信は、大溝城跡の一角に大溝陣屋を築いて藩政の拠点とするとともに、津田信澄が整備した城下町の町割りをもととして近世的城下町を整備した(この大溝町の町割りは21世紀初頭現在も残っており、重要文化的景観「大溝の水辺景観」として指定されている)。また、大溝湊を拡張した。 寛永20年(1643年)に光信が死去して子の分部嘉治が跡を継いだが、明暦4年(1658年)に妻(備中松山藩主池田長常の娘)の叔父に当たる池田長重と刃傷沙汰となり死亡するという事件が発生する。子の分部嘉高が幼少で家督を継いだが、寛文2年(1662年)には寛文近江・若狭地震、寛文6年(1666年)には洪水に見舞われた。嘉高は寛文7年(1667年)に嗣子無く没した。 第4代藩主として、嘉高の母の縁戚に当たる分部信政(旗本池田長信の子。池田長常の孫)が養嗣子として迎えた。寛文9年(1669年)5月には大洪水により高島郡一帯に被害が出たが、大溝藩領でも1万石の損毛を受け、幕府の御蔵米3000石を拝借して切り抜けている。延宝4年(1676年)5月にも大洪水に見舞われて1万3000石が徴収できず、それによって参勤交代の免除を幕府に願い出ているほどの財政破綻状態に陥っている。
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江戸時代前期
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狩野永徳は父の松栄(直信)に先立って48歳で没した。その後を継いだのは永徳の長男・狩野光信(1565? - 1608)と次男・狩野孝信(1571 - 1618)である。光信は、園城寺勧学院客殿障壁画などを残し、永徳とは対照的な、大和絵風の繊細な画風を特色とした。こうした画風が制作当時の一般的な好みに合致しなかったためか、『本朝画史』などの近世の画論は一様に光信を低く評価している。 狩野家の頭領である光信が死去した時、その子の狩野貞信(1597 - 1623)はまだ12歳の若年であったので、光信の弟である孝信が狩野派を率いることとなった。封建制度の下では、光信の長男である貞信の家系が宗家となるはずであったが、貞信が27歳で早世し後継ぎがなかったため、以後、幕末に至る狩野家の正系は孝信の子孫となっている。孝信には守信(探幽、1602 - 1674)、尚信(1607 - 1650)、安信(1613 - 1685)の3人の男子があり、この3人はそれぞれ鍛冶橋狩野家、木挽町(こびきちょう)狩野家、中橋狩野家(宗家)の祖となった。末弟の安信は前述の貞信の養子という扱いで狩野の宗家を継ぐことになったが、絵師として最も名高いのは探幽こと守信である。 守信は、後に出家して探幽斎と称し、画家としては狩野探幽の名で知られる。後に江戸に本拠を移し、江戸幕府の御用絵師として、画壇における狩野派の地位をますます不動のものとした。 探幽は幼少時より画才を発揮し、慶長17年(1612年)、11歳の時に駿府で徳川家康に対面、元和7年(1621年)には江戸鍛冶橋門外に屋敷を得て、以後江戸を拠点に活動し、城郭や大寺院などの障壁画を精力的に制作した。 探幽の作品のうち、江戸城と大坂城の障壁画は建物とともに消滅したが、名古屋城上洛殿の障壁画(水墨)は第二次大戦時には建物から取り外して疎開させてあったため空襲をまぬがれて現存しており、他に二条城二の丸御殿や大徳寺方丈の障壁画が現存する代表作である。これら大画面のほかにも、掛軸、絵巻、屏風などあらゆるジャンルの作品を残している。二条城二の丸御殿障壁画は25歳の若描きで、永徳風の豪壮な画風を示すが、後年の大徳寺の障壁画は水墨を主体とし、余白をたっぷりと取った穏やかな画風のものである。絵巻や屏風には大和絵風の作品もある。 探幽は写生(スケッチ)や古画の模写を重視し、写生図集や模写画集を多数残している。「探幽縮図」と称される探幽筆の古画模写は多数現存しており、各地の美術館や収集家が所蔵しているが、これらには今日では原画が失われてしまった古画の模写も多数含まれており、日本絵画史研究上、貴重な資料となっている。
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