斯波兼頼とは? わかりやすく解説

斯波兼頼

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/03 17:00 UTC 版)

 
斯波 兼頼 / 最上 兼頼
斯波兼頼法体像[注 1](光明寺蔵、東大史料所模写)
時代 鎌倉時代末期 - 南北朝時代
生誕 正和5年1月15日1316年2月9日[1]?、元徳元年(1329年)?[要出典][注 2]
死没 康暦元年/天授5年6月8日1379年7月21日
改名 竹鶴(幼名)→兼頼
別名 出羽大将、最上兼頼
戒名 光明寺殿成覚就公大居士
墓所 山形県山形市七日町の光明寺
官位 従五位下、修理大夫、式部丞
幕府 室町幕府
主君 足利義詮義満
氏族 河内源氏斯波氏最上氏
父母 父:斯波家兼
兄弟 大崎直持兼頼、天童義宗[注 3]、斯波持義、西室持頼[2]、斯波将頼
直家
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斯波 兼頼(しば かねより)は、南北朝時代武将最上 兼頼(もがみ かねより)とも呼ばれる。奥州探題斯波家兼の次男で、羽州探題最上氏の祖。

生涯

延元元年(1336年)3月関東執事で従兄弟の斯波家長の命により相馬氏を従えて行方郡へ行き、北畠顕家と激しく争う[3]。この時兼頼は元服前であり足利竹鶴を称し、重臣氏家道誠の後見を受けている[4]。延元2年(1337年)北畠顕家との杉本城の戦いで斯波家長が敗死し、鎌倉も陥落したため足利義詮安房へ逃れる。上杉憲顕などは北畠顕家が西上した後鎌倉を奪還、顕家を追って西上するが美濃青野原の戦いで敗れる。同年氏家道誠を通じて武石道倫の所領(陸奥亘理郡坂本郷)を安堵している[5]暦応2年(1339年)には式部大夫として元服している[6]

父の家兼が北陸から奥州に移ると、兼頼も共に下向する。延文元年(1356年)、出羽地方の北朝方として寒河江大江氏、山家氏などの南朝方の抵抗を抑えるために、出羽国按察使と称して出羽国最上郡山形(現・山形県山形市)に入部し[7][8]、翌年には山形城を築城し本拠とする[8][注 4]。入部した兼頼はまず滝之平瑜伽寺の塔頭を移して宝幢寺を建て、その他にも多くの寺社を建立した[10]

出羽国の安国寺は、寺伝によれば延文4年(1359年)に兼頼によって建立されたという。大曾根荘を地盤とした兼頼にとって、安国寺を建立した山辺荘大寺(山辺町)は村山盆地最上川を超えて勢力を伸長する寒河江大江氏を牽制する位置であった[11]

貞治6年(1367年)に鎌倉公方足利基氏が死去すると、出羽を含む東国の各地で南朝方が蜂起したが[注 5]漆川の戦いにおいて、鎌倉公方を継いだ足利氏満や、兄で奥州探題大崎直持と共に南朝方の寒河江大江氏を攻撃し降伏させた。また、近隣の里見氏に弟の義宗を養子に送り、一門とするなど武力政策と婚姻・養子政策を駆使し、山形斯波氏(後の最上氏)の基礎を築いた。兄の直持奥州管領家の大崎氏の祖となった他、弟の持義持頼[12]らも奥州に子孫を残したとされ、足利一門の名家という出自を思わせる。

応安6年(1373年)頃には、室町幕府より屋形号を許されて最上屋形と称したことを機に、所領の最上郡に因んで苗字を最上氏とした。

光明寺にある斯波兼頼の墓所

永和元年(1375年)、嫡男の直家に家督を譲って以降は城内に草庵を結び、念仏三昧の日々を送ったとされるが、永和3年(1377年)の「室町幕府管領奉書」(円覚寺文書)によれば、出羽国内円覚寺領の棟別銭徴収を担っている[13]。康暦元年/天授5年(1379年)死去した。墓所は兼頼が開いたと伝わる山形県山形市七日町の光明寺にある[14]

後裔

兼頼は最上氏(斯波最上氏、斯波出羽家)の初代とされる[15]。最上氏は戦国時代最上義光の出現によって飛躍的に領土を広げ、江戸時代初期に幕府によって改易されるまで、現在の山形県内陸部の米沢地方を除く、村山地方最上地方庄内地方を支配した。

逸話

  • 伯父・高経、父・家兼とともに越前国に逃れた新田義貞と戦い、兼頼の配下が義貞を討ち取ったと言われている[要出典]。新田義貞が所持していた源氏累代の名刀「鬼切」はのちに兼頼の手に渡り最上氏の家宝となった[要出典]

周辺系図

 
斯波高経
 
蘆名詮盛
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
斯波家兼
 
斯波兼頼
 
最上直家
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大崎直持
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
天童義宗
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
持義
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
西室持頼
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
将頼
 

脚注

注釈

  1. ^ 此御影□出羽最上山形遍□(照カ) 光明精舎
    開山□□出羽之国司按察□山□軍兼頼公也
    [従□□第十代上人請□阿弥陀仏也]清和天皇九使□八幡太郎
    □□守義家ヨリ五代家氏之子宗家之二男
    □兼之御子也始号出羽太将修理太夫
    [□王九十九代]後光厳院御宇延文元[丙申]稔八月
    □□山形江入部也[人王百代]後圓融院御宇
    康暦□(元カ)年六月八日□生也永和元年
    康暦元年迄五年御隠居云
    右兼頼被為書置御影
    覃破損之間于箱緘納而
    奉出一紀一度毎月八日□
    掛此御影為献供御令写□已而
  2. ^ 「光明寺由来記」に拠って1316年生まれとした場合[1]1327年生まれの兄・大崎直持よりも年長となり、また父・斯波家兼が9歳の時の子となってしまう。また、1336年に相馬氏と共に北畠顕家と戦った際、元服前の兼頼が氏家道誠の後見を受けていることなどから1316年生まれ説には異論がある[誰によって?]
  3. ^ 天童義宗は『系図纂要』によれば[要ページ番号]持義と同一人物であり、『続群書類従』によれば[要文献特定詳細情報]塩松伊予守持義にあたる。
  4. ^ 『会津四家合考』巻10(附録「家譜考」)収載の「大崎家譜」によれば延文3年(1358年)8月3日に山形に入る[9]
  5. ^ 武蔵平一揆の乱宇都宮氏綱新田義宗脇屋義治などが蜂起・挙兵している。

出典

  1. ^ a b 「光明寺由来記」[要文献特定詳細情報]
  2. ^ 持頼式部大輔西室殿、『続群書類従』5上(系図部)。
  3. ^ 『大日本史料』延元元年3月8日条(6編3冊185頁)、「相馬文書」
  4. ^ 『大日本史料』延元元年3月22日2条(6編3冊242頁)、「相馬岡田雑文書」
  5. ^ 『大日本史料』建武4年2月6日条(6編4冊72頁)、「相馬文書」。
  6. ^ 『大日本史料』延元元年3月8日条(6編3冊185頁)、「相馬文書」(裏書)氏家道誠注進状案、暦応2年3月20日付
  7. ^ 『系図纂要』巻64、清和源氏(13)最上氏
  8. ^ a b 「光明寺由来記」『寒河江市史』上巻、p. 508。
  9. ^ 『会津四家合考 二 南部根元記 全』国史研究会〈国史叢書〉、1914年、p. 170、NDLJP:985957。“兼頼/羽州最上之祖、延文三年八月三日下向最上山形〇持直舎弟”
  10. ^ 『寒河江市史』上巻、p. 509。
  11. ^ 『寒河江市史』上巻、p. 511。
  12. ^ 持頼式部大輔西室殿、続群書類従、5上(系図部)。
  13. ^ 『山形県史』第1巻(原始・古代・中世編)、1982年、国立国会図書館書誌ID:000001571745。『寒河江市史』上巻、p. 509。
  14. ^ 松尾剛次 (2014年9月26日). “光明寺本『遊行上人縁起絵』をめぐる謎を解く”. 最上義光歴史館. 2024年3月16日閲覧。 “光明寺は、最上氏の祖とされる斯波兼頼(1315–1379)が隠居して開いた寺院である。[...] 光明寺は、かつては城内でも本丸内にあったが、第十七世の其阿俊山の時代の文禄年中(1592–96)に、本丸内を出て、山形城東門の前に移転したという注目すべきことがわかる。また、兼頼および代々の遺骨も移し、霊屋を建てたという。”
  15. ^ 小林清治最上氏」『改訂新版 世界大百科事典』https://kotobank.jp/word/%E6%9C%80%E4%B8%8A%E6%B0%8F#E6.94.B9.E8.A8.82.E6.96.B0.E7.89.88.E3.80.80.E4.B8.96.E7.95.8C.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8コトバンクより2024年3月16日閲覧 

参考文献

外部リンク





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