鎌倉時代から戦国時代とは? わかりやすく解説

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鎌倉時代から戦国時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/11 01:23 UTC 版)

赤城神社」の記事における「鎌倉時代から戦国時代」の解説

律令体制崩壊して武家政権成立すると、朝廷国司権力によって支援されていた里宮衰退し村落部の信仰の中心は、参詣路の集まる場所に設けられ中社(中之宮)へと移った一方仏教の伝来神仏習合させ、修験者全国の山深く修行の場を求めて入山した。彼らによって山宮への信仰集まり山宮への信仰盛んになった。赤城神社もこの傾向に反さず、『神道集』には「赤城大明神縁起」として赤城山山頂部神社紹介されている。また仏教影響で、沼や山岳自体を神とみる見解廃れ、沼などに本地仏当てるようになった赤城大明神は「二大明神」として赤城山火口湖小沼大沼神格化され小沼神に虚空蔵菩薩大沼神に千手観音あてられた。後に中央火口丘地蔵岳信仰加わり地蔵岳地蔵菩薩あてられ、「三所明神」と称するようになった。なお大沼千手観音像は大洞赤城神社安置された。沼の神格化に関しては『宮城村誌』において、元慶4年条に「赤城沼神」(『三代実録寛文13年刊本)とあるため、この頃赤城神が小沼の神(のち大沼加え2神)であった推測されている(ただし「赤城石神」と記す写本もある)。 山宮里宮位置に関しては、赤城山大沼大洞赤城神社(前橋市富士見町赤城山)山宮二宮赤城神社前橋市二之宮町)が里宮にあたるとされる。また中社三夜赤城神社(前橋市三夜沢町)とされる。ただし三夜赤城神社旧地元三夜沢)が山宮だとし、二之宮から三夜沢へ神輿往復させる御神幸行事から三夜沢(元三夜沢)と二之宮山宮里宮関係にあるとする尾崎喜左雄の説、あるいは大洞山宮二之宮三夜沢の両社はともに里宮だとする説もある。 また地蔵信仰追加され14世紀ごろに、三夜赤城神社東宮が、地蔵祀るものとして現在地成立したその後元三夜沢にあった西宮東宮の場所に移転し三夜赤城神社東西2宮で構成されることになった三夜沢の西宮二之宮町神社同系とみられるが、起源不明である。 戦国時代に入ると、二宮赤城神社後北条氏により破却され衰亡した。再興江戸時代入ってからで、三夜赤城神社西宮)の影響下での復興だった。一方で大洞三夜沢の赤城神社長尾氏上杉氏などの信仰集めるなど隆盛している。

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鎌倉時代から戦国時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/06 14:41 UTC 版)

出羽吉川氏」の記事における「鎌倉時代から戦国時代」の解説

寒河江荘吉川は、鎌倉幕府より大江広元地頭任じられた際、多田仁綱目代として起居した地である。仁綱はこの地が、故地摂津国多田吉川村似ていることから吉川と名を改め居住したとされる(『安中系譜』)。大江広元亡くなると、嫡男寒河江荘潜居していた大江親広吉川阿弥陀堂建てて宗廟としたという。 正平23年/応安元年1368年)、2代鎌倉公方足利氏満羽州探題斯波兼頼奥州管領大崎直持斯波兼頼の兄)が攻め寄せた漆川の戦いにおいて、総大将大江茂信溝延城主)始め一族61名が犠牲となる大敗喫すと、寒河江時氏寒河江(現寒河江市丸内)の地に移り寒河江氏称し溝延茂信の遺児・家広に宗家を継がせたという。その後代々備前守称し血脈途絶える同族左沢氏白岩氏から養子取り存続している。また、白岩氏4代満教・寒河江氏18代高基・柴橋頼綱勘十郎)らを輩出した天正12年1584年寒河江氏最上氏によって滅ぼされると、当主・隆広も自害し吉川氏一時断絶する。隆広の子・良光は蘆名氏頼って会津落ち延び出家しその後寒河江氏旧臣らの嘆願により吉川阿弥陀堂大江氏宗廟を守ることを最上義光から許された。僧体であった慶長出羽合戦出陣した様子窺われる。しかし、慶長8年1603年)寿斎と嫡子広道最上義康暗殺された際にともに討たれた。

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鎌倉時代から戦国時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 07:13 UTC 版)

富士山本宮浅間大社」の記事における「鎌倉時代から戦国時代」の解説

以降公家武家からの崇敬を受け、後醍醐天皇土地寄進のほか、武家からは社領寄進修復重ねて行われた鎌倉時代には源頼朝社領寄進北条義時社殿の造営といった当時実力者からの崇敬受けた社伝(『富士本浅間社記』)によると、源頼朝富士の巻狩行った際、流鏑馬奉納したことが浅間大社流鏑馬起源とされる南北朝時代には足利尊氏足利直義による社領寄進今川範氏今川泰範らの土地安堵諸役免除などが行われた。武田信玄願状捧げその後武田勝頼天正4年から造営進め天正6年1578年)に遷宮行った豊臣秀吉社領寄進朱印状発布している。

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