鎌倉時代から戦国時代
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律令体制が崩壊して武家政権が成立すると、朝廷・国司の権力によって支援されていた里宮は衰退し、村落部の信仰の中心は、参詣路の集まる場所に設けられた中社(中之宮)へと移った。一方、仏教の伝来は神仏を習合させ、修験者は全国の山深く修行の場を求めて入山した。彼らによって山宮への信仰が集まり、山宮への信仰が盛んになった。赤城神社もこの傾向に反さず、『神道集』には「赤城大明神縁起」として赤城山山頂部の神社が紹介されている。また仏教の影響で、沼や山岳自体を神とみる見解は廃れ、沼などに本地仏を当てるようになった。赤城大明神は「二大明神」として赤城山火口湖の小沼と大沼が神格化され、小沼神に虚空蔵菩薩、大沼神に千手観音があてられた。後に中央火口丘の地蔵岳の信仰も加わり、地蔵岳は地蔵菩薩があてられ、「三所明神」と称するようになった。なお大沼の千手観音像は大洞赤城神社に安置された。沼の神格化に関しては『宮城村誌』において、元慶4年条に「赤城沼神」(『三代実録』寛文13年刊本)とあるため、この頃に赤城神が小沼の神(のち大沼を加え2神)であったと推測されている(ただし「赤城石神」と記す写本もある)。 山宮・里宮の位置に関しては、赤城山大沼の大洞赤城神社(前橋市富士見町赤城山)が山宮、二宮赤城神社(前橋市二之宮町)が里宮にあたるとされる。また中社は三夜沢赤城神社(前橋市三夜沢町)とされる。ただし三夜沢赤城神社の旧地(元三夜沢)が山宮だとし、二之宮から三夜沢へ神輿を往復させる御神幸の行事から三夜沢(元三夜沢)と二之宮が山宮・里宮関係にあるとする尾崎喜左雄の説、あるいは大洞が山宮で二之宮・三夜沢の両社はともに里宮だとする説もある。 また地蔵信仰が追加された14世紀ごろに、三夜沢赤城神社の東宮が、地蔵を祀るものとして現在地に成立した。その後、元三夜沢にあった西宮が東宮の場所に移転し、三夜沢赤城神社は東西2宮で構成されることになった。三夜沢の西宮は二之宮町の神社と同系列とみられるが、起源は不明である。 戦国時代に入ると、二宮赤城神社が後北条氏により破却され衰亡した。再興は江戸時代に入ってからで、三夜沢赤城神社(西宮)の影響下での復興だった。一方で大洞・三夜沢の赤城神社は長尾氏・上杉氏などの信仰を集めるなど隆盛している。
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鎌倉時代から戦国時代
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寒河江荘吉川は、鎌倉幕府より大江広元が地頭に任じられた際、多田仁綱が目代として起居した地である。仁綱はこの地が、故地摂津国多田郷吉川村に似ていることから吉川と名を改め居住したとされる(『安中坊系譜』)。大江広元が亡くなると、嫡男で寒河江荘に潜居していた大江親広が吉川に阿弥陀堂を建てて宗廟としたという。 正平23年/応安元年(1368年)、2代鎌倉公方足利氏満・羽州探題斯波兼頼・奥州管領大崎直持(斯波兼頼の兄)が攻め寄せた漆川の戦いにおいて、総大将大江茂信(溝延城主)始め一族61名が犠牲となる大敗を喫すと、寒河江時氏は寒河江(現寒河江市丸内)の地に移り寒河江氏を称し、溝延茂信の遺児・家広に宗家を継がせたという。その後代々備前守を称し、血脈が途絶えると同族の左沢氏・白岩氏から養子を取り存続している。また、白岩氏4代満教・寒河江氏18代高基・柴橋頼綱(橋間勘十郎)らを輩出した。 天正12年(1584年)寒河江氏が最上氏によって滅ぼされると、当主・隆広も自害し吉川氏は一時断絶する。隆広の子・良光は蘆名氏を頼って会津へ落ち延び出家し、その後寒河江氏旧臣らの嘆願により吉川阿弥陀堂で大江氏宗廟を守ることを最上義光から許された。僧体であったが慶長出羽合戦に出陣した様子が窺われる。しかし、慶長8年(1603年)寿斎と嫡子広道は最上義康が暗殺された際にともに討たれた。
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鎌倉時代から戦国時代
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「富士山本宮浅間大社」の記事における「鎌倉時代から戦国時代」の解説
以降、公家や武家からの崇敬を受け、後醍醐天皇の土地の寄進のほか、武家からは社領の寄進や修復が重ねて行われた。鎌倉時代には源頼朝の社領の寄進や北条義時の社殿の造営といった当時の実力者からの崇敬を受けた。社伝(『富士本宮浅間社記』)によると、源頼朝が富士の巻狩を行った際、流鏑馬を奉納したことが浅間大社の流鏑馬の起源とされる。南北朝時代には足利尊氏や足利直義による社領の寄進、今川範氏や今川泰範らの土地の安堵や諸役の免除などが行われた。武田信玄は願状を捧げ、その後武田勝頼は天正4年から造営を進め天正6年(1578年)に遷宮を行った。豊臣秀吉も社領寄進の朱印状を発布している。
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