鎌倉時代から永禄の変までとは? わかりやすく解説

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鎌倉時代から永禄の変まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:41 UTC 版)

骨喰藤四郎」の記事における「鎌倉時代から永禄の変まで」の解説

近世以前資料骨喰藤四郎について最も詳しく伝えているのは軍記大友興廃記』(1635年)である。それによれば南北朝時代幕開けとなる1336年建武3年)に足利尊氏九州落ち延びた際、大友家当主大友氏時重代宝刀である吉光骨啄刀(=骨喰藤四郎)を尊氏加勢する誓いの証として贈ったという。 この逸話は『大友興廃記』の写本の他、元禄期に出版された『筑紫軍記』(1703年)にも再録されて世に知られることになった。また『享保名物帳』も同様の由緒載せている。さらに、豊後森藩の藩医木付春碩による『豊陽志』(1721年)は『大友興廃記』の記述加え、もともと鎌倉時代建久年間源頼朝から大友氏初代当主大友能直与えられ名刀だと記しているただしこれらは江戸時代初期から中期にかけて成立した資料である。 これより古い関連資料としては、南北朝時代成立した梅松論』の流布本に、建武3年多々良浜の戦いへ臨む足利尊氏骨食という刀剣帯びている描写がある。その日足利尊氏軍装は「筑後入道妙恵が頼尚を以て進上申たりし赤地の錦の御直垂に、唐綾威の御鎧に、御剣二あり。一は御重代の骨食也。重藤御弓上矢をさゝる。…」というものであった。この「御重代の骨食」が骨喰藤四郎と同じものであるかどうかが、江戸時代故実家近代刀剣研究家論議の的となってきた。福永酔剣両者同一刀剣とみなし、その上で、骨啄=骨食が『大友興廃記』の記述のとおりに尊氏九州落ち時点大友氏重代だったとすれば梅松論』の足利氏重代とする記述辻褄合わないという疑義呈しているが、『大友興廃記』の方の記述誤りとして、大友伝来ではなく足利伝来であった結論付けた。 しかし『梅松論』の写本のうち、古態を残す古本系「京大本」には「御剣二。一ハ御重代ノ大ハミ也」と別の剣の名を記しているなど、同一刀剣とみなすことには慎重を期すべき材料もある。 室町時代後期には、鎌田妙長によって書かれた『常徳院殿様江州御動座当時在陣衆着到』に、1487年長享元年9月12日、9代将軍・足義尚六角高頼征伐するため近江国坂本出陣した際、小者に「御長刀ほねかみと申す御重代をかつかせ(担がせ)」ていたという記録がある。中世文学研究者鈴木彰は、室町将軍出陣には重代刀剣携えることが慣例になっていたという説の根拠一つに、このほねかみを挙げている。また福永はこのほねかみについても骨喰藤四郎同一視し、骨かみは骨喰みに違いないとして、当時まだ薙刀であったことがわかると述べている。 これより後の足利幕府衰退期所有移動を語るのは、前述の『大友興廃記』等の軍記及び『享保名物帳』といった江戸時代書物である。それらによれば骨喰藤四郎尊氏以降足利将軍家重要な宝物として代々伝えられていったが、1565年永禄8年)、13代将軍・義輝三好三人衆により暗殺され永禄の変のときに奪われ松永久秀の手渡った。それを大友宗麟聞きつけ、大友家こそ元の持ち主であると主張して久秀から買い戻したという。

※この「鎌倉時代から永禄の変まで」の解説は、「骨喰藤四郎」の解説の一部です。
「鎌倉時代から永禄の変まで」を含む「骨喰藤四郎」の記事については、「骨喰藤四郎」の概要を参照ください。

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