鎌倉時代から永禄の変まで
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「骨喰藤四郎」の記事における「鎌倉時代から永禄の変まで」の解説
近世以前の資料で骨喰藤四郎について最も詳しく伝えているのは軍記『大友興廃記』(1635年)である。それによれば、南北朝時代の幕開けとなる1336年(建武3年)に足利尊氏が九州へ落ち延びた際、大友家当主の大友氏時が重代の宝刀である吉光骨啄刀(=骨喰藤四郎)を尊氏へ加勢する誓いの証として贈ったという。 この逸話は『大友興廃記』の写本の他、元禄期に出版された『筑紫軍記』(1703年)にも再録されて世に知られることになった。また『享保名物帳』も同様の由緒を載せている。さらに、豊後森藩の藩医木付春碩による『豊陽志』(1721年)は『大友興廃記』の記述に加え、もともと鎌倉時代の建久年間に源頼朝から大友氏の初代当主大友能直へ与えられた名刀だと記しているただしこれらは江戸時代の初期から中期にかけて成立した資料である。 これより古い関連資料としては、南北朝時代に成立した『梅松論』の流布本に、建武3年の多々良浜の戦いへ臨む足利尊氏が骨食という刀剣を帯びている描写がある。その日の足利尊氏の軍装は「筑後入道妙恵が頼尚を以て進上申たりし赤地の錦の御直垂に、唐綾威の御鎧に、御剣二あり。一は御重代の骨食也。重藤の御弓に上矢をさゝる。…」というものであった。この「御重代の骨食」が骨喰藤四郎と同じものであるかどうかが、江戸時代の故実家や近代の刀剣研究家の論議の的となってきた。福永酔剣は両者を同一の刀剣とみなし、その上で、骨啄=骨食が『大友興廃記』の記述のとおりに尊氏の九州落ちの時点で大友氏の重代だったとすれば『梅松論』の足利氏の重代とする記述と辻褄が合わないという疑義を呈しているが、『大友興廃記』の方の記述を誤りとして、大友伝来ではなく足利伝来であったと結論付けた。 しかし『梅松論』の写本のうち、古態を残す古本系「京大本」には「御剣二。一ハ御重代ノ大ハミ也」と別の剣の名を記しているなど、同一の刀剣とみなすことには慎重を期すべき材料もある。 室町時代後期には、鎌田妙長によって書かれた『常徳院殿様江州御動座当時在陣衆着到』に、1487年(長享元年)9月12日、9代将軍・足利義尚が六角高頼を征伐するため近江国坂本に出陣した際、小者に「御長刀ほねかみと申す御重代をかつかせ(担がせ)」ていたという記録がある。中世文学研究者の鈴木彰は、室町将軍の出陣には重代の刀剣を携えることが慣例になっていたという説の根拠の一つに、このほねかみを挙げている。また福永はこのほねかみについても骨喰藤四郎と同一視し、骨かみは骨喰みに違いないとして、当時まだ薙刀であったことがわかると述べている。 これより後の足利幕府衰退期の所有移動を語るのは、前述の『大友興廃記』等の軍記及び『享保名物帳』といった江戸時代の書物である。それらによれば、骨喰藤四郎は尊氏以降、足利将軍家の重要な宝物として代々伝えられていったが、1565年(永禄8年)、13代将軍・義輝が三好三人衆により暗殺された永禄の変のときに奪われて松永久秀の手に渡った。それを大友宗麟が聞きつけ、大友家こそ元の持ち主であると主張して久秀から買い戻したという。
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