鎌倉時代から室町時代まで
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毛利季光は大江広元の四男で相模国毛利荘を父から相続したため、毛利氏を称するようになった。したがって、毛利家・毛利氏としては季光を初代とするのが相当であるが、毛利家の慣習上、天穂日命を初代とするため、季光は39代とされている。 だが、季光は北条時頼の義父であったにもかかわらず三浦泰村と結んで北条氏に反旗を翻したため、敗北して一族の大半が果ててしまった(宝治合戦)。越後にいた季光の四男経光は合戦に関わらず、その家系が残った。同族の長井氏の尽力により越後・安芸の守護職を安堵された経光は、嫡男毛利基親に越後国刈羽郡佐橋荘南条を譲り、四男時親に安芸国吉田荘を譲った。 毛利時親は鎌倉時代後期、京都の六波羅探題の評定衆を勤めたが、姻戚関係(義兄)のあった内管領の長崎円喜が執権北条高時に代わり、幕府で政権を握っているのを嫌って隠居し、料所の河内国へ隠棲する。 元弘3年(1333年)に後醍醐天皇の討幕運動から元弘の乱が起こり、足利尊氏らが鎌倉幕府を滅亡させるが、毛利時親は合戦に参加せず、後醍醐天皇により開始された建武の新政からも距離を置いたため、鎌倉幕府与党として一時領土を没収された。 南北朝時代には足利方に従い、時親の曾孫にあたる毛利元春が、室町幕府より九州の南朝勢力であった懐良親王の征西府を討伐するために派遣された今川貞世(了俊)の指揮下に入り活躍している。元春は安芸に下向し、吉田郡山城にて吉田荘の統治を始め、隠居していた曽祖父の時親が元春を後見した。
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鎌倉時代から室町時代まで
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「日本教育史」の記事における「鎌倉時代から室町時代まで」の解説
鎌倉時代から室町時代には、京都の貴族が古典研究や有職故実の学問の担い手となっていた。しかし、貴族の地位の低下と共に、仏教寺院や学識僧が徐々にその担い手として台頭し、その中でも鎌倉五山を中心とした五山文学はその代表である。 また武家階級という新たな社会層も、自らの後進のために、学問を身につけるための施設、学校の整備に配慮するようになり、鎌倉時代には北条実時が金沢称名寺(現、神奈川県横浜市金沢区)に金沢文庫を設置し、多くの文書を収集した。また、遅れて室町時代には関東地方において上杉憲実が足利学校を再興する。これは、キリスト教の宣教師たちに「坂東の大学」といわれ、当時の日本の中心的な学校と考えられた。また西洋人の目からみて、その当時の代表的な学校は、他に高野山、比叡山などがそれに並べられていた。 庶民の間では、芸事や趣味の道が次第に洗練されたものになり始め、『風姿花伝』のように芸の道を人間の道と重ね合わせて修行のありようを考えるという視点も、この武家階級の時代の産物である(芸道論)。
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鎌倉時代から室町時代まで
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1180年:源頼朝が、平家打倒のため、韮山で挙兵。 1334年:現在、河内の重福院にある宝篋印塔(静岡県指定文化財)が建立される。 1399年:「下田村若宮」と刻まれた鰐口が、下田八幡神社に奉納される。「下田」の地名が出てくる最初の例。 1498年:伊勢新九郎(北条早雲)、深根城に立て篭もる足利茶々丸、関戸吉信を滅ぼす。
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