鎌倉時代から安土桃山時代の宗教と女性
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「日本の女性史」の記事における「鎌倉時代から安土桃山時代の宗教と女性」の解説
女性不浄感と民間信仰 9世紀後半の『貞観式』には血穢が成文化していたが、室町時代になると『血盆経』が普及してお産で亡くなる女性は血の池地獄に落ちると説かれるようになり、さらに中世末期の『三国因縁地蔵菩薩霊験記』では死産は女性の前世からの業によるもので地獄に落ちると観念されるようになる。対して鎌倉仏教は女性を救済する立場をとり女性の信心を集めたが、先の女身垢穢など女性不浄感を強調する点は変わらず、念仏などの功徳により変成男子によって成仏しうると説くものであった。一方で『盂蘭盆経』では母の恩に報い母を救い成仏させることが僧の課題に位置付けられるなど、母性を尊重する思想が広がる。また女性側も女性不浄感を受容し息子の功徳により往生を望むことを理想とするようになっていくが、これは母性に女性の存在価値を閉じ込める方向への変化と位置付けられる。一方で禅宗を中心に尼五山など尼寺も多く建立された。曹洞宗の了然尼や臨済宗の無外如大などが著名であり、真言律宗では古代尼寺を復興し社会救済活動を行うなどした。 民間信仰と芸能 中世には歩き巫女と呼ばれる集団があった。彼女らは声聞師と共に行動し、津々浦々を遍歴して求めに応じて神おろしを行った。歌舞伎の祖といわれる出雲阿国は歩き巫女であったと言われる(後述)。同じように白拍子や曲舞々などの女性が軽業師と共に雑芸人集団を形成していたが、これらは平安時代の傀儡子の系譜を引くものである。曲舞の名人とされる百万は能にも影響を与え、祇園祭の曲舞車で舞ったとされる。また寺社の勧進をすすめる存在に熊野比丘尼がいる。彼女らは声聞師と共に行動し、絵解を行って民衆へ熊野信仰を広めて造営資金を集めた。また弱体化していた伊勢神宮を再興するため勧進や大名への働きかけを行い、129年途絶えていた外宮の遷宮を復活するなどした守悦上人や清順上人も勧進比丘尼であった。このように中世には民間信仰を広め芸能を支えた女性たちがいた。
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