鎌倉時代から室町時代
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元弘元年(1331年)、後醍醐天皇が鎌倉幕府倒幕の旗を挙げたとき、繁伴は鎌倉幕府14代執権の北条高時の命により熊野に来た護良親王と戦ったが、鎌倉幕府は倒れて窮地に陥り、建武3年、家臣ら30余名を率いて海路で伊豆国に下向し、大瀬崎から上陸して田方郡江梨村に立てこもった。その後、後醍醐天皇の建武の新政が崩壊すると、本拠の紀伊国藤白に戻った。 しかし観応2年(1351年)、繁伴は足利尊氏と弟の足利直義が争った薩埵峠の戦いで直義派について敗れ、再び伊豆江梨村に逃れて以降、この地に定住し江梨鈴木氏の初代となった。また、繁伴は江梨の大瀬神社で祭祀にいそしんだとされる。繁伴の郎党には、四天王と称された渡邉氏、加藤氏、武氏、秋津氏という豪の者のほか、木島法印(河野氏裔)という山伏などがいた。 繁伴は元々「鈴木重伴」と名乗っていたが、伊豆江梨に下ると「繁」の字を用いて繁伴と名乗り、藤白鈴木氏の当主は弟の重恒が継いだ。 繁伴はその後鎌倉公方の足利基氏に帰属し、関東管領の上杉憲顕から江梨村の領有権を認められた。『伊豆勝覧』[要文献特定詳細情報]によると、貞治6年(1367年)には足利氏満に招かれて、伊豆・相模国の船大将を命じられ、東国における室町幕府水軍の総大将となった。繁伴は後に足利氏満から鎌倉に呼ばれ、配下の木島氏と追儺の式を行った。また、鎌倉公方に招かれて伊豆江梨村に下ったのは繁伴の子・重行の代とも云われる。 江梨鈴木氏は後に江梨村のほか、久料、足保、古宇、立保を含めた江梨五ヶ村を支配するようになり、北伊豆随一の有力武門へと成長していった。 菩提寺の航浦院は、鈴木繁允(兵庫頭)の三世とされる鈴木繁郷(杉本左京大夫)の開創と伝えられる。
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鎌倉時代から室町時代
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この時代も、長野原町の歴史を史料の上で確認することはできない。
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鎌倉時代から室町時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/14 14:29 UTC 版)
宗元は同郡佐味郷に入って荘を支配し、その子・政茂は鎌倉幕府引付衆として活躍した。『吾妻鏡』には太郎(頼広)・次郎(宗元)・五郎(政元)らの名がみられる。また頼広系が代々鎌倉に仕えたのに対し、次男・宗元系は領地に下向し荘園管理を行ったようである(『伊勢崎市史』[要文献特定詳細情報])。 元弘元年(1331年)9月、後醍醐天皇のいる笠置山・楠木正成の守る下赤坂城に対する討伐軍が鎌倉を出発した際、軍勢のなかに那波左近将監がみえる。元弘の乱において那波氏は幕府方で登場したのである。しかし鎌倉将軍府に関東廂番が設置されたときには、その三番方に那波氏惣領らしき那波左近大夫将監政家の名があり、幕府側から途中で建武政権側になったとみられている。だが那波左近大夫(政家)は中先代の乱に際し足利直義軍を攻撃しており、建武政権に背いている。これによって一時的に那波氏は没落した。 室町時代に入ると那波氏は鎌倉公方に付いて復権した。上杉禅秀の乱で禅秀軍の攻撃を受けた足利持氏の近臣のなかに那波掃部助がみえ(「鎌倉大草紙」)、また惣領家6代目の那波上総介宗元は持氏の奉公衆として活動した。上総介宗元は万里小路家の利根荘代官にもなっている。上州白旗一揆による横領を万里小路時房が防ごうとして任命されたのだが、那波氏も一揆構成員であり万里小路家の意図はうまくいかなかった。その後、永享の乱で上総介宗元は持氏方で参加して戦死したとみられ、惣領家は衰亡した。結城合戦では上州一揆のなかに那波刑部少輔入道(勝宗)・大炊介(繁宗)・那波左京亮、上杉被官に那波内匠介がみられるが、これは持氏方に付かなかった宗家以外の一族とみられている。戦国末期に活動が那波郡に見られるのは頼広の弟・次郎宗元の系統である。
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鎌倉時代から室町時代
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祐経の子・祐時は伊東を称し、その後子孫は全国に広まった。主だったものでは、祐時の子・祐光の子孫が日向国へ下向してのちの日向伊東氏となり、地頭大名として現地で勢力を誇った。 伊東祐親の子孫の一派(伊東祐清の子の祐光(すけみつ)の子孫)が尾張国岩倉に移り住んだとされ、その子孫が織田信長や豊臣秀吉・秀頼に仕え、江戸時代には備中国で大名となった。この系統を尾張伊東氏(または岡田伊東家)と呼称する。後述の尾張伊東氏の項目及び河津氏の当該項目参照。 日向伊東氏は、南北朝時代までは守護職である島津氏に対して土持氏と共に国衆(くにしゅう)または国方(くにかた)と呼ばれた。しかし、その島津家が奥州家と総州家に分かれ、その両家が庶流を巻き込んで内紛状態になり、室町時代以後伊東氏は土持氏と共にその関係性が消滅する。
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