鎌倉時代から室町時代とは? わかりやすく解説

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鎌倉時代から室町時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/21 06:28 UTC 版)

江梨鈴木氏」の記事における「鎌倉時代から室町時代」の解説

元弘元年1331年)、後醍醐天皇鎌倉幕府倒幕の旗を挙げたとき、繁伴は鎌倉幕府14執権北条高時の命により熊野に来た護良親王戦ったが、鎌倉幕府倒れて窮地に陥り、建武3年家臣30余名率いて海路伊豆国下向し、大瀬崎から上陸して田方郡立てこもったその後後醍醐天皇建武の新政崩壊すると、本拠紀伊国藤白戻った。 しかし観応2年1351年)、繁伴は足利尊氏と弟の足利直義争った薩埵峠の戦い直義派について敗れ、再び伊豆逃れて以降、この地に定住し江梨鈴木氏初代となったまた、繁伴は江大瀬神社祭祀にいそしんだとされる。繁伴の郎党には、四天王称され渡邉氏、加藤氏武氏秋津氏という豪の者のほか、木島法印河野氏裔)という山伏などがいた。 繁伴は元々「鈴木重伴」と名乗っていたが、伊豆に下ると「繁」の字を用いて繁伴と名乗り藤白鈴木氏当主は弟の重恒が継いだ。 繁伴はその後鎌倉公方足利基氏帰属し関東管領の上憲顕から江領有権認められた。『伊豆勝覧』[要文特定詳細情報]によると、貞治6年1367年)には足利氏満招かれて、伊豆・相模国の船大将命じられ東国における室町幕府水軍総大将となった。繁伴は後に足利氏満から鎌倉呼ばれ配下木島氏と追儺の式を行ったまた、鎌倉公方招かれ伊豆下ったのは繁伴の子重行の代とも云われる。 江梨鈴木氏は後に江のほか、久料、足保、古宇、立保を含めた五ヶ支配するようになり、北伊豆随一の有力武門へと成長していった。 菩提寺の航浦院は、鈴木繁允(兵庫頭)の三世とされる鈴木繁郷(杉本左京大夫)の開創伝えられる

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鎌倉時代から室町時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 05:51 UTC 版)

長野原町」の記事における「鎌倉時代から室町時代」の解説

この時代も、長野原町歴史史料の上確認することはできない

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鎌倉時代から室町時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/14 14:29 UTC 版)

那波氏」の記事における「鎌倉時代から室町時代」の解説

宗元は同郡佐味郷に入って荘を支配しその子・政茂は鎌倉幕府引付衆として活躍した『吾妻鏡』には太郎頼広)・次郎(宗元)・五郎(政元)らの名がみられる。また頼広系が代々鎌倉仕えたのに対し次男・宗元系は領地下向荘園管理行ったようである(『伊勢崎市史』[要文特定詳細情報])。 元弘元年1331年9月後醍醐天皇のいる笠置山楠木正成の守る下赤坂城対す討伐軍が鎌倉出発した際、軍勢のなかに那波左近将監がみえる。元弘の乱において那波氏幕府方登場したのである。しかし鎌倉将軍府関東廂番設置されときにはその三番方那波氏惣領らしき那波左近大夫将監政家の名があり、幕府側から途中で建武政権になったとみられている。だが那波左近大夫政家)は中先代の乱際し足利直義軍を攻撃しており、建武政権背いている。これによって一時的に那波氏没落した室町時代に入ると那波氏鎌倉公方付いて復権した。上杉禅秀の乱で禅秀軍の攻撃受けた足利持氏近臣のなかに那波掃部助がみえ(「鎌倉大草紙」)、また惣領家6代目那波上総介宗元は持氏の奉公衆として活動した上総介宗元は万里小路家利根代官にもなっている。上州白旗一揆による横領万里小路時房防ごうとして任命されたのだが、那波氏一揆構成員であり万里小路家意図うまくいかなかった。その後永享の乱上総介宗元は持氏方で参加して戦死したとみられ、惣領家衰亡した。結城合戦では上州一揆のなかに那波刑部少輔入道(勝宗)・大炊介(繁宗)・那波左京亮上杉被官那波内匠介がみられるが、これは持氏方に付かなかった宗家以外の一族とみられている。戦国末期活動那波郡見られるのは頼広の弟・次郎宗元の系統である。

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鎌倉時代から室町時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/10 03:41 UTC 版)

伊東氏」の記事における「鎌倉時代から室町時代」の解説

祐経の子・祐時は伊東称しその後子孫全国広まった主だったものでは、祐時の子・祐光の子孫が日向国下向してのちの日向伊東氏となり、地頭大名として現地勢力誇った伊東祐親の子孫の一派伊東祐清の子祐光(すけみつ)の子孫)が尾張国岩倉移り住んだとされ、その子孫織田信長豊臣秀吉・秀頼に仕え江戸時代には備中国大名となった。この系統尾張伊東氏(または岡田伊東家)と呼称する。後述尾張伊東氏の項目及び河津氏当該項目参照日向伊東氏は、南北朝時代まで守護職である島津氏に対して土持氏と共に国衆くにしゅう)または国方くにかた)と呼ばれた。しかし、その島津家奥州家総州家分かれ、その両家庶流巻き込んで内紛状態になり、室町時代以後伊東氏土持氏と共にその関係性消滅する

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