鎌倉時代から安土桃山時代の文化と女性
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「日本の女性史」の記事における「鎌倉時代から安土桃山時代の文化と女性」の解説
鎌倉時代に入ると、絵画では男性の描写が中心となり、女性の描写は表情や装束などの個性よりも身体的な特徴が強調された。たとえば『平治物語絵巻』は絵画の制作を命じた貴族が主な鑑賞者であるため、上級の男性貴族は犠牲者として登場せず、犠牲者となる女性を通した性差別と、暴虐行為をおこなう武士を描く身分差別がある。『紫式部日記』をもとにした『紫式部日記絵巻』は、男性貴族が新興勢力の武士に対して自己正当化をするために描かれ、男性を大きく描き、女性は平安時代よりも小柄に描かれるようになった。 仏教には肉体に対する執着を断ち切るための不浄観という修行があり、その思想をもとに死体が腐敗して白骨化する様子を表現した「九相図」という絵画も描かれた。僧に男性が多かったため、九相図では若い女性の肉体が選ばれた。女性の美貌に魅了されていた男性が、女性の肉体を通して不浄に気づいて出家するという仏教説話も多く書かれた。信仰心に尊い女性が、自分の肉体の不浄を見せることで男性を発心させる物語としても機能した。 中世までの芸能は、白拍子や巫女をのぞくと男性の専門集団が中心だった。中世後期から女性芸能者が増えた。鎮魂の意味をもっていた念仏踊や、華やかな装いをする風流踊と呼ばれる踊りがあり、そこからややこ踊が舞台芸能として生まれ、少女らによって踊られた。出雲阿国と呼ばれる女性が、ややこ踊をもとにかぶき踊を始めたとされ、阿国は脇差や袖無し羽織など男性の格好で演じて京中で人気を呼んだ。阿国は十字架や数珠の首飾り、覆面を身につけていた伝承もあり、歩き巫女などの遊行芸能に近かった。かぶき踊の評判は遊郭にも届き、六条三筋町では遊女歌舞伎が始まった。遊女歌舞伎は性的な魅力を強調して人気を呼んだが、のちに徳川幕府によって禁止されていった。 障害者の女性は、芸で生計を得ることもあった。『天狗草紙』(1296)には、東寺の門前で鼓を演奏する視覚障害者と思われる女性がいる。中世では、群衆が集まる有名な寺社の門前でこうした女性が芸を披露したと推測される。室町時代には盲御前(めくらごぜ)と呼ばれ、のちに瞽女(ごぜ)と呼ばれるようになった。
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