鎌倉時代から江戸時代まで
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鎌倉時代後期には、後醍醐天皇の皇子である護良親王が吉野山で倒幕の兵を挙げる。吉野城では幕府軍との激しい戦いが行われ、村上義光が壮絶な死を遂げている(吉野城の戦い)。 後醍醐天皇は幕府滅亡後に京都で建武の新政を開くが、南北朝時代には吉野へ移り、皇居や行政機関を置いて吉野朝廷(南朝)が成立した。南朝は吉野町の吉野山を中心とするが、旧西吉野村には行宮としての賀名生皇居があった。川上村にも伝承地がある。南北朝統一後、室町時代にも後南朝勢力の活動地となった。 戦国時代の天文年間には、伊勢国の北畠晴具が大和に進出し、吉野を支配下に入れている。だが、これにより大和諸国人との対立が発生し、筒井氏・越智氏・十市氏・久世氏らと合戦に及んでいる。 江戸時代初期には、1614年に徳川家康の顧問を務めた天海の支配下となった。なお、1706年(宝永年3)刊行の『風俗文選』(森川許六・選)には「芳野の賦」の項があり、吉野に関する名所、短歌などが記載されている。
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鎌倉時代から江戸時代まで
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「那須烏山市」の記事における「鎌倉時代から江戸時代まで」の解説
1213年 - 1218年(建保年間) 那須十郎が越前国より紙漉き職人を招き、程村紙(ほどむらし=厚手の和紙、程村は現那須烏山市下境地区にあった地名に由来、和紙伝来の起源は諸説ある)を創製。程村紙(烏山和紙ともいう)は国選択の無形文化財であり、今日でも地元学校の卒業証書等には透かし入りの程村紙が使用されている。 1418年(応永25年) 沢村五郎資重が稲積城から烏山城址(寿亀山:現在の那須烏山市城山)に烏山城を築いたのがこの町の始まりである。 1560年(永禄3年) 領内に疫病が流行、時の烏山城主・那須資胤(すけたね)が八雲神社に病魔退散を祈願。祭礼に際し、奉納余興を行う。今に伝わる山あげ祭が始まる。 1590年(天正19年) 成田氏長が、武蔵国忍(現在の埼玉県行田市)から2万石で入封し烏山藩が立藩、以後領主は次々と替わることになる。 1600年(慶長5年)大田原氏の一族大田原増清により交代寄合として、現那須烏山市森田地区に森田陣屋が築かれた。 1725年(享保10年)10月 大久保常春が烏山藩に2万石(1728年(享保13年)に1万石加増し3万石となる)で入封し、その後1869年(明治2年)の版籍奉還まで8代続く。本領のほか相模国にも飛地領を配し、相模国厚木村(現在の神奈川県厚木市の一部)は烏山藩(大久保氏)の支配となり、同所にも役所が置かれた(厚木陣屋)。 1836年(天保7年) 烏山藩の借財は34,000両余に達し(『相模原市史』)、窮状に陥る。翌1837年(天保8年)、二宮尊徳を招聘、天性寺境内にはお救い小屋が設置され、延べ1万余人が救済されるものの藩の復興はままならなかったという。
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鎌倉時代から江戸時代まで
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「横浜市の歴史」の記事における「鎌倉時代から江戸時代まで」の解説
1180年(治承4年) 源頼朝が六浦津(金沢区)に伊豆三嶋明神を勧請して瀬戸神社を創建。鎌倉幕府の交易港として発展する礎となる。 1233年(貞永2年) 鎌倉幕府が、平子経久に平子郷内石河村(中区・磯子区)を安堵する。 1239年(延応元年) 執権・北条泰時が、佐々木泰綱(佐々木信綱の三男。佐々木六角氏の祖)に武蔵国小机郷鳥山(港北区)などの開拓を命じる。 1254年(建長6年)徒然草の兼好法師も庵を結んだ日蓮宗・六浦山上行寺、日蓮の船中問答により真言宗・金勝寺から改宗改名。 1275年頃 北条実時が武蔵国久良岐郡六浦荘金沢(金沢区)に金沢文庫と称名寺を建立する。 1392年 神奈川湊に関する最古の記事。 1442年(嘉吉2年) 比留間範数らが、宝金剛院に横浜村の薬師堂免田畠を寄進する(「横浜」の地名の初見だが、現在の横浜とは別のものとされる)。 1476年(文明8年) 長尾景春の乱で、小机城主矢野兵庫助が景春方につく。1478年(文明10年)、扇谷上杉氏配下の太田道灌に攻められ落城。 1512年(永正9年)伊勢宗瑞(北条早雲)が鎌倉に入り、相模全域を支配する。 1522年(大永2年)頃、伊勢氏(後の後北条氏)が小机城に城番を置き、小机衆が編成される。 1542年(天文11年) 横浜市域が後北条氏の検地を受ける。 1590年(天正18年) 後北条氏が、豊臣秀吉に攻められて滅亡する。徳川家康が江戸に入り、横浜市域は徳川氏の領地となる。翌年から領内の検地が始まる。 1600年(慶長5年) 徳川家康が、関ヶ原の戦いに向かう時、軍船国一丸に乗船して武州金沢より出航す。 1601年(慶長6年) 東海道宿駅伝馬の制が定められ、市域には神奈川宿、保土ヶ谷宿が形成される(1604年(慶長9年)に戸塚宿も加わる)。
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鎌倉時代から江戸時代まで
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「上越地方」の記事における「鎌倉時代から江戸時代まで」の解説
鎌倉時代になると、親鸞が直江津(上越市北部)に流刑され、浄土真宗の地盤となった。上越地方から越前地方(福井県北部)にかけての日本海側に浄土真宗系の寺院が多いのは、この名残である。 戦国時代には、春日山(上越市中心部)を本拠地とする上杉氏の地盤となったが、戦国末期になると、上杉氏は米沢に移った。 江戸時代の上越地方は、高田藩と糸魚川藩の領土となった。また、北陸道や善光寺街道も整備され、現在でも、北陸道や善光寺街道の宿場町から発達した都市や村落も多い。
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