神奈川湊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 08:15 UTC 版)
神奈川台場跡 - 現在の高島線東高島駅付近。埋め立てなどにより、構築物の大半が埋没している。
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神奈川湊
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神奈川湊(かながわみなと)は、武蔵国橘樹郡神奈川(現・神奈川県横浜市神奈川区)にあった湊(港)である。 神奈川湊が記録に現れるのは、鎌倉に幕府が置かれた13世紀以降のことである。しかし、古代から東京湾内海交通の拠点として、六浦(神奈川県横浜市金沢区)・品川(東京都品川区)・富津(千葉県富津市)・木更津(同木更津市)などとともに、当地に港が存在したことは確認されている。 神奈川湊とその湊町は、鎌倉時代には鶴岡八幡宮が支配し、室町時代には関東管領上杉氏の領地となった。江戸時代には東海道が整備され、慶長6年(1601年)に神奈川へ宿場が置かれた。神奈川宿と神奈川湊は、幕府の直接支配を受け、神奈川陣屋がこれを担った。神奈川湊の周辺には、北に生麦湊、新宿湊があり、南に戸部湊、野毛湊があった。 安政5年(1858年)、神奈川湊沖・小柴(横浜八景島周辺)に碇泊していたポーハタン号上で日米修好通商条約が締結された。同条約では「神奈川」を開港すると定められていた。しかし、街道を通行する日本人と、入港する外国人との間の紛争を避けるために、神奈川湊の対岸にある横浜村に港湾施設や居留地をつくり、開港した。これが現在の横浜港となった。そのため、外国人に対しては横浜は神奈川の一部と称した。
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