現市域各地の前史とは? わかりやすく解説

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現市域各地の前史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 07:12 UTC 版)

横浜市」の記事における「現市域各地の前史」の解説

横浜市内における遺跡周知の埋蔵文化財包蔵地)の分布状況は、市教育委員会刊行の『横浜市文化財地図』や、市の公開する行政地図情報遺跡地図)で参照可能だが、市域内遺跡数はおよそ2500か所にのぼる。ただし大都市横浜にあってこの内1700か所はすでに全域的または部分的に開発などによる破壊受けているという(1998年時点)。 旧石器時代の遺跡は、矢指谷遺跡北川貝塚花見山遺跡けんか山遺跡など、およそ25か所発見されている。 縄文時代遺跡市内各所みられるが、市北部の都筑区では、1970年代から80年代港北ニュータウン開発伴って200超える遺跡一斉に発掘調査された結果港北ニュータウン遺跡群)、南堀貝塚北川貝塚をはじめ三の丸遺跡二ノ丸遺跡月出松遺跡神隠丸山遺跡華蔵台遺跡など、縄文時代時期亘る多数集落遺跡貝塚含む)が発見されている。 弥生時代遺跡は、弥生中期までは少ないが、中期後半以降は、都筑区大塚・歳勝土遺跡(国の史跡)・大原遺跡(おっぱらいせき)・権田原遺跡(ごんたっぱらいせき)、青葉区朝光寺原遺跡など、方形周溝墓を伴う環濠集落現れる市内における古墳時代古墳出現3世紀後半とされ、現在確認されている市内最古古墳2005年平成17年)に発見され港北区新羽南古墳3世紀後半円墳)である。なお4世紀段階では、弥生時代以来方形周溝墓のほか、弥生墳丘墓から古墳へと発展する過渡的な特徴を持つ陸橋付き方形周溝墓併存しており、青葉区の稲ヶ原遺跡などでこの種の方形周溝墓検出されている。その後4世紀7世紀にかけて市内各所古墳(群)や横穴墓(群)が出現したほか、矢崎山遺跡など、同時代集落遺跡形成されるうになる青葉区朝光寺原古墳群稲荷前古墳群市ヶ尾横穴墓群荏子田横穴港北区観音松古墳戸塚区富塚古墳西区軽井沢古墳などはこの時代遺跡である。磯子区三殿台遺跡(国の史跡)は、縄文時代弥生時代古墳時代集落が同じ台地上に営まれ複合遺跡として知られる市域地名に関する文献上の初出は、『日本書紀』安閑天皇元年534年)の条とされる武蔵国に住む豪族が、橘花たちばな橘樹郡)、倉樔(くらす。後に久良(くらき)郡、さらに久良岐郡)ほか4か所を屯倉として献上した記される飛鳥・奈良時代以降律令制導入に伴い横浜市域にも郡(評)が置かれ7世紀後半までに市域には武蔵国橘樹郡久良岐郡都筑郡相模国鎌倉郡置かれた。青葉区長者原遺跡は、8世紀成立した都筑郡衙跡とされる。なお、都筑郡の名が見え最古の記録『万葉集』である。 古代鎌倉郡にあたる栄区㹨川流域には横穴墓群遺跡発達し㹨川流域横穴墓群という約20200以上にのぼる横穴墓群点在していた。㹨川上流には上郷深田遺跡という古代関東有数製鉄遺跡があった。近くの上猿田遺跡製鉄作業携わる人々ムラだという。 平安時代には各所開発進み坂東八平氏武蔵七党など、関東武士の力が蓄えられた。市域には、平子氏谷(はんがや、はりがや)氏、稲毛氏綴党(つづきとう)などの武士団勢力張った。今に残る弘明寺宝生寺など、平安時代以前建立とされる寺院は、これら有力武士団の支援受けていたもの考えられる延長5年927年)には、都筑郡杉山神社が、式内社とされた。この杉山神社には論社いくつかあり、位置確定されていない市域は、鎌倉鎌倉幕府開設され12世紀末(鎌倉時代開始)から本格的に開発始まった鶴見川柏尾川などの河川流域では農業発達し13世紀前半には、現在の新横浜周辺地域に当たる小机鳥山港北区小机町鳥山町)から、多摩川鶴見川周辺地域が、幕府によって大規模に開発された。また、東京湾面する六浦湊(金沢区六浦)が鎌倉玄関口として文化交易産業中心地となり、中国大陸南宋)との貿易日宋貿易)や内湾交易によって栄え武士商人職人宗教者などが多く集まり賑わい見せ東海道接して栄えた神奈川湊神奈川区神奈川とともに漁業海運業発達へと繋がっていった。 横浜の名の初出は、室町時代中期嘉吉2年1442年)の文献である。この年平子氏家臣思われる市川季氏と比留間範数の両名が、石河宝金剛院(現、南区宝生寺)に、横浜村薬師堂免田畠寄進する旨の文書残されている。ただしこの横浜現在の横浜(市政中心街になっている関内地区)と異なるとされ、現在の横浜市原型となった武蔵国久良岐郡横浜村1667年完成した吉田新田役場設置している。 戦国時代に入ると、相模国伊勢氏市域支配下置いた伊勢氏改め北条氏にとって小机城本牧村重要な拠点であり、小机には「小机衆」と呼ばれる家臣団が、本牧には水軍として編成され漁民達が置かれていた。 江戸幕府置かれ17世紀以降は、東海道宿場とされた神奈川宿程ヶ谷宿保土ヶ谷宿)、戸塚宿中心に発展する。特に、神奈川湊を持つ神奈川宿江戸湾東京湾内海交通の要衝一つとして栄え対す六浦湊は、歌川広重金沢八景浮世絵としたように風光明媚な景勝地として色合い濃くていった。なお、江戸時代末期までの横浜村は、前出2つの湊とは対照的に戸数わずか100足らず砂州上に形成され半農半漁郷村であった

※この「現市域各地の前史」の解説は、「横浜市」の解説の一部です。
「現市域各地の前史」を含む「横浜市」の記事については、「横浜市」の概要を参照ください。

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