飛鳥・奈良時代
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「伊達市 (福島県)」の記事における「飛鳥・奈良時代」の解説
7世紀中期 - 8世紀初頭には地方行政が再編され、国(くに)は評(こおり)を経て郡(こおり・ぐん)と名称が変わり、信夫国も信夫郡となった。また、道国郡制が整備され、東山道陸奥国信夫郡となった。行政官である国造も評司(こおりのつかさ)、郡司(ぐんじ)と変遷した。 701年(大宝元年)、律令制が始まると大和朝廷の勢力圏は現在の宮城県域まで北進し、それによって、718年(養老2年)には陸奥国の分国が行われた。陸奥国のうち、信夫郡、安積郡、岩背郡、白河郡、会津郡の5郡は石背国(いわせのくに)となった。同様に菊田郡、石城(いわき)郡、標葉(しねは)郡、行方(なめかた)郡、宇太(うだ)郡、曰理(わたり)郡は石城国となり、残る柴田郡、刈田郡、名取郡、宮城郡、黒川郡等の北部が新しい陸奥国となった。ただし、分国された新しい陸奥国では北方防備に十分な経済力を維持できなかったため、724年(神亀元年)までにこの3国は再び合併して陸奥国に戻された。
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飛鳥・奈良時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/13 19:39 UTC 版)
仏教伝来以来、その拡大とともに各地で寺院が建立された。勿論、当時は私寺が圧倒的であった。私寺に制約が設けられたのは、大宝律令で「僧尼令」が定められて僧尼が私に寺院や道場を建立する事を禁じて以後である。もっとも、それ以外の寺院建立は全く禁じられていなかったことから、貴族や豪族が氏寺を建立して僧を招いたり、僧尼のために民間が施主となって彼らの名義によって寺院や道場を建立することが行われていた。朝廷はこれを表向きは取締りの対象としたものの、鎮護国家を標榜する朝廷にとって仏教の布教につながる私寺建立を妨げることは一種の矛盾であり、実際にはほとんど規制されなかったと考えられている。行基や良弁が多くの寺院を建立できたのもこうした抜け道が存在したからであると考えられている。当時、朝廷は表向きにはこうした私寺を「道場」として扱って公式な寺院とは認めない態度を取った。
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