カバネの形骸化:位階制と家格
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 00:07 UTC 版)
「爵位」の記事における「カバネの形骸化:位階制と家格」の解説
制度面では氏族の序列であるカバネが形骸化し能力主義を基底とした冠位十二階が位階制として発展していく一方で、政治の実態はむしろ能力主義による天爵の精神から氏族の出自により登用される人爵としての性格に回帰していった。当初は様々な氏族が登用されてきた位階制も次第に政争を通じて、藤原氏に代表される上級貴族に高位高官が占められるようになった。とりわけ新たな位階制の下では皇親たる親王の品階を一品から四品と定め、それ以外の親王を無品親王とし諸王の位階を正一位から従五位下までの十四階に分けた。さらに人臣に対しては正一位から少初位下までの三十階に分けられたがこの位階のうち国司の長官に相当する従五位下以上がいわゆる貴族と位置付けられ、従五位下を別称して松爵、栄爵といわれるようになり従五位下に叙せられることを叙爵と称されるようになったが、特に大宝令の中で特徴的であるのが蔭位の制でこの制度では高位者の子弟を貴族または貴族に準ずる官位に叙する仕組みが整えられ、貴族政治の色彩が強まったのである。さらに、平安時代以降になると有力氏族ごとに叙位任官者の推薦枠が保障される氏爵が設けられるようになった。年度ごとに同一氏族の一門同士で叙位任官者を推挙する年爵や一門を順送りに叙位任官させる巡爵といった慣行も行われるようになったのはその例である。まさに、朝廷の位階制度は有力な院宮王臣家に独占されていくことになった。やがて同一氏族の中でも嫡流庶流の別はもちろん、母の身分、父祖の官位に応じて個々の家系ごとに昇ることができる官位の上限、すなわち極位極官が固定化していくことになり鎌倉時代以降、公家、武家とも家格が細分化されていくことになったのである。 平安時代から鎌倉時代以降、貴族は主に公卿を中心とした公家と武士を中心とした武家に分かれたが公家の序列は藤原摂関家の子孫を中心とした摂家を筆頭に清華家、大臣家、羽林家、名家、半家に分けられ、家々で任ぜられる極位極官が定められた。武家における家格は政治の実権を長く握っており、多くの家臣を統率する観点から公家の格式以上に複雑なものとなった。武家の血統では武家政治の時代を通じて将軍家の一門、有力家臣の家系、姻戚関係が重視され、鎌倉時代は将軍と同じ清和源氏の一門のうち特に認められた者を門葉と称し足利将軍家の一門は足利一門として徳川将軍家の一門は家門大名と称され、叙位任官など格式や人事面で優遇された。将軍の一門については足利一門が政治の実権を握った室町時代を除いて政治への参画は敬遠され、ただ将軍家の連枝として格式のみ保障されることが多かった。一方、人事面で政治の要職に登用されたのはそれぞれの時代で幕府草創に功労のあった武家であった。鎌倉時代はともに有力御家人であった三浦氏、和田氏、安達氏との政争に勝利した北条氏が執権職を世襲し、その他の役職も北条氏および姻戚関係にある有力御家人で守護・地頭職が占められるようになり室町時代は足利一門および有力守護の家系で構成された三管領四職七頭の格式が整い、特定の武家に幕府の役職が世襲された。江戸時代以降となると武家の格式がさらに複雑化することとなり将軍の家臣は直参とされ、1万石以上の武家を大名、将軍御目見え以上を旗本、御目見え以下の直参を御家人といい、大名の家臣を陪臣といった。また大名についてはその身分格式が細かく、将軍一門の家門大名、徳川古参の家臣たる譜代大名、それ以外の外様大名に分けられ幕政への参画の道は譜代大名にのみ開かれた。特に、幕府職制の最高職たる大老は井伊氏、酒井氏、堀田氏などに限られ、老中には幕府の中で京都所司代や若年寄など重職を経た譜代大名が登用されたのである。 一連の鎌倉時代から江戸時代までの変遷の中で武家の格式もかなり細分化が進み、室町時代以降は特に足利一門や有力守護に対しては将軍の通字である「義」または当代の将軍の諱の文字の一字を賜る将軍偏諱という新たな栄典が生まれ、足利姓を称する一門は鎌倉公方や篠川御所、稲村御所など公方号や御所号を称するようになり、また有力守護に対しては屋形号および白傘袋毛氈鞍覆の使用が与えられ守護代には唐傘袋毛氈鞍覆の他、塗輿などが免許されるなど家系の序列に応じた栄典が整っていった。とりわけ将軍偏諱と御所号、屋形号の免許については江戸時代に室町時代からの名家や国主大名に与えられる恩典として踏襲されていった。さらに安土桃山時代に豊臣秀吉から豊臣氏や羽柴姓が大名に下賜される慣例が生まれ、江戸幕府の下では将軍家から国主大名や将軍の寵臣に対し松平姓が下賜されるなど武家に対する栄典が拡充されていった。加えて江戸幕府の下では大名の家柄や石高に応じ伺候席が定められ、御三家や100万石を領する加賀藩などの大廊下を筆頭に大広間、溜間、帝鑑間、柳間、雁間、菊間広縁に分けられた。官位への任免は大名をはじめ上級旗本、御三家の上級家臣に限られ、外様大名では加賀藩家老の本多氏のみ従五位下への叙爵のみ許されるなど江戸時代にはその身分制度もかなり複雑化されていくようになった。
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