藤原摂関家とは? わかりやすく解説

摂家

(藤原摂関家 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/06 23:02 UTC 版)

摂家(せっけ)とは、鎌倉時代中期に成立した藤原氏嫡流公家家格の頂点に立った近衛家一条家九条家鷹司家二条家(序列順[注釈 1])の5つの一族のこと[1]大納言右大臣左大臣を経て摂政関白太政大臣に昇任でき、藤氏長者に就く資格を有した。摂関家(せっかんけ)、五摂家(ごせっけ)、執柄家(しっぺいけ。「執柄」とは権力掌握のことで摂政・関白の別名)ともいう。


注釈

  1. ^ 近衛が筆頭、一条と九条、鷹司と二条がそれぞれ同格。
  2. ^ 一条能保の娘は道家の母であり、更にその姉妹は西園寺公経に嫁いだ。公経の娘は道家夫人となっている
  3. ^ 「議奏」の名称が定まるのは貞享3年(1686年
  4. ^ 九条家が約3合分多い
  5. ^ 家継の正式な母天英院が近衛家の出身
  6. ^ 嘉仁親王(大正天皇)の后妃選定にあたっては、皇族・旧摂家の他、同じ公爵である徳川家や岩倉家の娘なども事前調査の対象となっている[74]
  7. ^ 正五位下相当、なお清華家の場合は従五位下相当の侍従からとなる。道長、頼通、忠家、基実の4人は少将のまま三位まで昇り「三位少将」となったが、通常は四位まで昇り「四位少将」となった上で中将に昇ってから三位となる(三位中将)例であった。
  8. ^ 天皇が人事に関して臣下に意見を求めること。
  9. ^ なお、非摂家(清華家以下)の大臣は天皇の特旨が無い限り、勅問の対象にすらならなかった。
  10. ^ 一条兼香と近衛内前は禁中並公家諸法度第6条を拡大解釈して異論を唱えている(長坂、2018年、P39-40.)。

出典

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  7. ^ 小川剛生 1997, p. 1.
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  10. ^ 樋口健太郎「藤原忠通と基実-院政期摂関家のアンカー-」(初出:元木泰雄 編『保元・平治の乱と平氏の栄華』〔中世の人物 京・鎌倉の時代編第1巻〕(清文堂出版、2014年)/所収:樋口『中世王権の形成と摂関家』(吉川弘文館、2018年) ISBN 978-4-642-02948-3) 2018年、P165-179.
  11. ^ 樋口健太郎「藤原忠通と基実-院政期摂関家のアンカー-」(初出:元木泰雄 編『保元・平治の乱と平氏の栄華』〔中世の人物 京・鎌倉の時代編第1巻〕(清文堂出版、2014年)/所収:樋口『中世王権の形成と摂関家』(吉川弘文館、2018年) ISBN 978-4-642-02948-3) 2018年、P178-179.
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「摂家」の続きの解説一覧

藤原摂関家

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平清盛 (NHK大河ドラマ)」の記事における「藤原摂関家」の解説

藤原忠実ふじわら の ただざね) 演:國村隼 摂関家の長。 摂関家生まれた誇りか武士の存在見下している。白河院政期には政治表舞台から遠ざけられていたが、白河院没後治天の君となった鳥羽院によって復職させられる。しかし鳥羽院からも一定の距離を置かれ朝廷重鎮ありながら政権奪取する事は叶わない内に、長男の忠通に家督を譲る。 忠通よりも次男の頼長に期待をかけ、源為義使って藤原氏長者の証「朱器台盤」を奪い取って頼長に与えるが、苛烈政策進める頼長を危惧し距離を取り始める。保元の乱で頼長が敗れると、摂関家立場悪化懸念して南都私邸籠もり敗走してきた頼長が助け求めて拒絶した。しかし後に頼長の死を悟り一目すら頼長に会わなかった事を深く後悔し慟哭した。 藤原頼長ふじわら の よりなが) 演:山本耕史幼少期佐藤詩音忠実次男内大臣、のち左大臣となり、その苛烈振る舞いから「悪左府」と称される物事僅かな乱れ許せない神経質な人物摂関家栄華復活朝廷乱れ粛正目指す身分秩序重んじ武士新興貴族たちを嫌うが信西だけは学者として高く評価しているが、藤原摂関家による政道目指しているために後になって袂を分かつ事になる。 平氏陥れるために兄・清盛代わり一門率いようと志す家盛に目をつけ、その出世後ろ盾となったことで、間接的に家盛の死の要因作り、その死に様を「武士の子らしい、見事な犬死に」と忠盛対し皮肉った。 父・忠実に寵愛され、彼の引き立てで兄・忠通を押しのけて藤原氏長者となり内覧の宣旨受けて政治実権を握るが、その苛烈すぎる行動貴族たちの恨みを買い、遂には父からも敬遠されるようになる。また近衛帝死後の王者議定では信西策動により、妻の服喪中を理由参加阻まれ信西や忠通の推す後白河帝即位したために苦境に立たされ、また父より譲られていた朱器台盤奪取される。失意の中、同じく立場危うくしていた崇徳院接近し保元の乱引き起こす。しかし源為朝夜襲提案卑怯だとして拒絶その結果後白河帝方に先手打たれ敗北敗走最中に首に流れ矢受けて重傷負い南都にいた父を頼るも見捨てられ絶望の内に舌を噛み切って自害した死後信西見つけた長の日記には、藤原摂関家の復権目指しつつも究極的に朝廷のために尽くしていた彼の一面書かれていた。 藤原師長ふじわら の もろなが) / 藤原兼長ふじわら の かねなが) 演:片山景介師長) / 中根大樹(兼長) 頼長の息子たち近衛帝崩御の際、兄弟共にそれを父に伝えた。共に参議まで昇進したが、その際、父から朝廷忠誠を誓う旨を訓戒されていた。 秦公春(はた の きみはる) 演:富川一人長の随臣。 頼長の随臣にして衆道相手でもある。頼長が亡き平家盛話題出した際、頼長に嫉妬染みた視線向けている。 俊成(としなり) 演:窪田吾朗長の随臣官職図書允。 保元の乱敗走する頼長に従い南都赴いて逼塞する藤原忠実助け求める。父子の情に訴えて一目でも再会果たそうとしたが門前払いにあい、果たされる事はなかった。 藤原忠通ふじわら の ただみち) 演:堀部圭亮 忠実長男鳥羽帝の頃より、摂政関白歴任する。 父・忠実同様武士の存在見下しており、忠盛殿上人になったのを祝う宴の席で、忠実と共に忠盛侮辱した。弟・頼長を養子としていたが、父が頼長を偏愛したため対立するうになる。娘・聖子崇徳帝入内させるが懐妊しないことに焦り、得子と結託し女の子躰仁近衛帝)を聖子養子として即位させる。近衛帝崩御する信西や得子と結託して頼長を排除し復権目指す保元の乱では後白河帝方につき、乱の終結後に功労者清盛招かれた宴の席で、かつて忠盛侮辱したことを謝り列席者達を驚かせた。その後政界の重鎮として美福門院とともに行動し平治の乱では美福門院とともに藤原信頼政権堕落ぶりを嘆いた。後に二条帝六波羅へと遷幸すると、他の公卿たちとともに六波羅へと参内する乱後清盛摂関家有職故実伝え、また嫡男・基実に清盛の娘・盛子を嫁がせることで平家との縁戚関係作ることで摂関家生き残り図り清盛摂関家行く末託して亡くなった藤原基実ふじわら の もとざね) 演:村杉蝉之介 忠通の嫡男関白摂政。 忠通の後を受けて摂関地位に就く。父の方針に従って清盛次女・盛子を娶り、平家縁戚関係を結び、朝廷での後ろ盾となるなど友好な関係を結んでいたが、若くして亡くなった。 盛子(もりこ) 演:八木のぞみ幼少期近藤里沙) 基実の妻。清盛次女平家との姻戚関係を望む忠通の求めにより基実に嫁ぐ。基実の死後はその所領多く相続した若くして病死し、その遺領後白河院召し上げられ、後に基房に与えられた。 藤原基通ふじわら の もとみち) 演:永嶋柊吾幼少期:大硲真陽) 基実の嫡男治承三年の政変叔父・基房が解官されると、代って氏長者となり摂政の位に就いた平家には友好的宗盛と共に高倉帝譲位迫り南都焼討の報に接した際も平家弁護している。 藤原基房ふじわら の もとふさ) 演:細川茂樹 忠通の次男平家友好を結ぶ忠通・基実の方針反対しており、基実の死後氏長者継承し摂政になると平家対立する自分乗る輿の行く手阻んだ清盛孫・資盛に恥辱与え殿下乗合事件起こし重盛の事を穏便に収めようとする態度に気を良くしていたが、清盛意を受けた時忠郎党による報復遭い平家恐れるようになる後白河院手を組み、盛子を介して平家横領されていた摂関家領地取り戻し息子師家権中納言据える事で自家摂関家嫡流にせんと図るが、治承三年の政変解官され、大宰府流された。 藤原師家ふじわら の もろいえ) 演:阿久津秀寿 基房の嫡男後白河院引き立てで、本来の嫡流である従兄の基道を跳び越して権中納言となるが、治承三年の政変解官される。 藤原兼実ふじわら の かねざね) 演:相島一之 忠通の三男宮中でも一、二を争う和歌の上手。 基房ともに平家対立するが、時に過激な手法に出る兄に危惧抱いていた。治承三年の政変後は反平家立場潜めていたが、南都焼討の報に接した際は舌鋒鋭く平家非難した

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