藤原政秀とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 藤原政秀の意味・解説 

藤原政秀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/12/08 03:52 UTC 版)

日本の政治家
藤原政秀
生年月日 1961年5月29日
出生地 神奈川県小田原市
出身校 明治大学経営学部
前職 市議会議員秘書官
現職 夷王会総裁
称号 経営学士(明治大学)

第12代夷王会総裁
在任期間 2011年7月18日 - 現職

旗御会名誉総長
在任期間 2012年4月13日 - 現職

中央対策本部長
在任期間 2009年6月23日 - 2011年7月9日

その他の職歴
中央対策本部議員
2003年9月13日 - 2009年5月21日
テンプレートを表示

藤原 政秀(ふじわら まさひで、1961年 (昭和36年) 5月29日 - )は、日本政治家右翼活動家。不動産会社社長

旗御会財務課長、本部事務所長、夷王会財務次官、中央対策本部議員(2期)、会員指導部司令補、中央対策本部長などを歴任した。現、夷王会総裁(第12代)。

経歴

生い立ち

神奈川県小田原市出身。父親は、不動産会社社長。長男として生まれる。父方の祖父が海上自衛官だったこともあり、幼い頃はよく横須賀基地護衛艦を見に行ったという。それ以来政秀は、海上自衛官になるという夢を持つ。高校2年生の頃から、右翼皇室について興味を持ち始め、現在に至る。

学生時代

神奈川県小田原市小学校を卒業し、小田原市立の中学校に入学する。1976年に卒業。中学生時代では、生徒会で活躍し、3年生の時には副会長も務め成績も良かったと言う。同年、横須賀市内にある神奈川県立横須賀大津高等学校に進学する。高校では生徒会活動には参加しなかったが、柔道部に所属し引退まで部活動に専念した。高校2年生の頃に、右翼皇室に興味を持ち始め、2年生時に家族との東京旅行で皇居を訪れた際は、あまりにも感動してしまい家族も唖然としたという。大学受験では、防衛大学校を受験しようとしたが、両親に反対されたため、明治大学を受験し合格する。1979年に高校を卒業。同年、明治大学に入学する。大学では、経営学を専攻。大学2年生の時に、皇居見学のため千代田区を訪れた際、右翼団体「旗御会」の会員に声をかけられる。元々右翼に興味があった政秀は、会員の話に乗り、会の本部に案内された。そこで、当時広報課長であり、政秀が師と仰ぐ倉本高夫に出会う。2人は意気投合し、政秀は大学卒業後、旗御会に入る事を約束しその場を去った。

活動家

1983年に大学を卒業し、経営学士の称号を取得。同年、父親の経営する不動産会社に就職する。1984年に23歳の若さで営業部長を務め、父の後継者として修行を行う。1986年には、父親の紹介で親交を深めた市議会議員の秘書を1年間務めた。1987年皇居見学のため千代田区を訪れた際に、旗御会本部に顔を出した。この時に、政秀は旗御会総長補佐に昇進していた倉本高夫と再会する。倉本は政秀に入会するよう打診し、政秀はその申し出を受け入れ、同年、9月に父親に内緒で入会した。10月、高学歴をかわれて財務課係長になると、その後は旗御会財務課長補佐、財務副課長と務め、1989年、28歳で財務課長に就任する。同年、1月8日昭和天皇の死に衝撃を受ける。一時は、殉死も考えたがさすがに、思い留まったという。1992年、旗御会本部役員に昇進する。この昇進には、倉本総長補佐の根回しがあったとされる。1994年、父が他界。政秀は、父親のあとを継ぎ不動産会社社長に就任する。1995年夷王会の招待により、特別会員として入会。夷王会財務委員および、夷王会が経営する飲食店の店長に就任する。1997年、夷王会での地位の確立と旗御会支配を目論んだ政秀は、倉本と手を組み、総裁になる事を目指す。しかし、当時の要職は、殆どが松本豪太総裁率いる松本派が独占していたため、厳しさをました。1998年、旗御会を退会し夷王会での活動に専念する。旗御会最高相談役であった村井智英に退会しないように勧められたが夷王会での活動が大事として、それを断った。1999年夷王会会員指導部司令補に異例の昇進を果たす。この昇進には倉本の根回しがあったとされる。しかし、このことを良く思わなかった松本総裁によって、倉本は旗御会総長補佐の任を解かれ、強制退会されてしまった。それ以来、倉本は姿を消した。2000年、松本が総裁職を辞任したことを受けて、政秀が親交を深めていた大平友雄が第10代総裁に就任した。この就任によって、政秀は大きな後ろ盾を得て、2001年に財務次官に就任する。会の財産管理権を得た政秀は、大きな権力を持ち、月.200万円もの報酬を得る。2003年、会内で行われる中央対策本部議員選挙に出馬し当選。会の最高幹部の仲間入りを果たす。その後は、2期目の当選を果たし会内での地位を確立。2009年には、田安第11代総裁の信頼を得てナンバー3の役職である中央対策本部長に任命される。この時期には、政秀を総裁に押すという気運が高まり、政秀の躍進を恐れた田安総裁は政秀を罷免しようとした。しかし、この目論みは失敗に終わり、田安は辞任を余儀なくされた。田安の辞任を受けて、緊急に総会が開かれその場で、夷王会総裁選挙が行われた。立候補したのは、田安元総裁、政秀本部長、池田本部議員の3人であり、結果、政秀が当選し第12代総裁に就任した。政秀が総裁に就任した事により、政秀は夷王会の支配に成功した事になる。今年、政秀は総裁事項の決まりにより、旗御会名誉総長に就任し、両方の組織の首領になった。

役職履歴

夷王会での主な役職
  • 夷王会総裁(第12代)
  • 夷王会中央対策本部長
  • 夷王会中央対策本部議員(2期)
  • 夷王会財務局財務次官
  • 夷王会会員指導部司令補
旗御会での主な役職
  • 旗御会名誉総長
  • 旗御会本部役員
  • 旗御会財務課長
  • 旗御会本部連絡室室長
  • 旗御会本部事務所所長

家族

参考文献

関連項目




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「藤原政秀」の関連用語

藤原政秀のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



藤原政秀のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの藤原政秀 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS