白河院政期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 05:23 UTC 版)
父の正盛は白河法皇に北面武士として仕え、源義親の追討で武名を上げた。一方で源義忠に息女を娶わせるなど、先行の軍事貴族である河内源氏とも連携を図り、義忠は忠盛の烏帽子親となっている。義忠死後に河内源氏が衰退するのと入れ替わるように、伊勢平氏は源氏の与党を従わせつつ勢力を伸ばしていった。 天仁元年(1108年)、忠盛は13歳で左衛門少尉となり、天永2年(1111年)には検非違使を兼帯して、京の治安維持に従事した。天永4年(1113年)には盗賊の夏焼大夫を追捕した功で従五位下に叙される(『長秋記』3月14日条)。同年の永久の強訴では父とともに宇治に出動して興福寺の大衆の入京を阻止している。永久2年(1114年)、白河院の寵妃・祇園女御に鮮鳥を献上し、父に続いてこの女御に仕えた。その後、検非違使の任を離れ伯耆守となり、右馬権頭も兼任する。 永久5年(1117年)、鳥羽天皇に入内した藤原璋子(待賢門院)の政所別当となる。他の別当には藤原長実や藤原顕隆など白河法皇の有力な近臣が名を連ねており、法皇の信頼の厚さがうかがえる。元永2年(1119年)11月14日の賀茂臨時祭では新舞人に選ばれ、その華やかな装いは「道に光花を施し、万事耳目を驚かす。誠に希代の勝事なり」と周囲を驚嘆させた(『中右記』11月19日条)。保安元年(1120年)に越前守に転任するが、在任中に越前国敦賀郡で殺人事件が起こり、犯人の日吉社神人を逮捕して検非違使に引き渡す途中で、延暦寺の悪僧が犯人の身柄を奪取するという事件が発生する。朝廷が悪僧を捕らえたことで延暦寺の強訴に発展するが、白河法皇は忠盛を擁護した。この頃に院の昇殿を許され、藤原宗子(池禅尼)を正室とする。 大治2年(1127年)、従四位下に叙され、備前守となる。さらに左馬権頭を兼任し、院の牛馬の管理を行う院御厩司となった。馬寮と院御厩は職務内容が共通するため兼任は自然なことであったが、戦闘における騎馬の重要性の観点からすれば、軍事貴族である忠盛にとっては大いに意義のあるものだった。大治4年(1129年)3月、忠盛は山陽道・南海道の海賊追討使に抜擢される(『朝野群載』巻11)。これは、正式な宣旨ではなく院宣と検非違使別当宣(別当は待賢門院の兄・三条実行)によるものであり、白河法皇の強引な引き立てだったと考えられる。それから間もなくの7月7日、白河法皇が77歳で崩御した。忠盛は法皇の葬儀で他の近臣とともに入棺役を務め、山作所(火葬場)の設営も担当した。
※この「白河院政期」の解説は、「平忠盛」の解説の一部です。
「白河院政期」を含む「平忠盛」の記事については、「平忠盛」の概要を参照ください。
白河院政期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 10:06 UTC 版)
応徳3年(1086年)白河天皇が堀河天皇に譲位して院政を開始すると、匡房は初代院司の一人となる。またこれに前後して従三位に叙せられて公卿に列した。応徳4年(1087年)式部大輔に任ぜられ、寛治2年(1088年)正三位・参議に叙任された。議政官の傍らで、式部大輔・勘解由長官を兼帯している。この間、寛治4年(1090年)には堀河天皇に漢書を進講している。 寛治8年(1094年)従二位・権中納言に叙任される。永長2年(1097年)大宰権帥を兼ね、翌承徳2年(1098年)大宰府へ下向する。大宰権帥を大過なく勤め上げ、康和4年(1102年)任期満了に伴って正二位に叙せられた。長治2年(1105年)所領に関連して興福寺西金堂衆と争い、西金堂衆に襲われて荘園を焼き払われてしまっている。長治3年(1106年)権中納言を辞して、大宰権帥に再任されるが、今度は病気もあって任地には下向しなかった。匡房が下向しないことで、大宰府管内は「神民蜂起、群盗相乱、凡管内放火殺害者、不可勝計」という混乱状況に陥り、廟堂からの批判にさらされている。 鳥羽朝の天永2年(1111年)大蔵卿に遷任されるが、同年11月5日薨去。享年71。
※この「白河院政期」の解説は、「大江匡房」の解説の一部です。
「白河院政期」を含む「大江匡房」の記事については、「大江匡房」の概要を参照ください。
- 白河院政期のページへのリンク