白河藩での対応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 04:48 UTC 版)
白河藩でも天明3年の東北の大飢饉の際には、裕福な家臣や町人が米を他所に売り払ったことで米不足が起こっており家臣への俸禄の支給が遅延する事態が発生していた。東北諸藩は既に穀留を発しており周辺からの買米は不可能であった。当時の藩主であり定信の養父である松平定邦は山間部を除いて被害が少なかった分領の越後から米を輸送させると共に、江戸へ赴き会津藩に対して白河藩の江戸扶持米を与える代わりに会津の藩米の入手を願い入れ、同年12月までに会津藩米6000俵を白河へ移送させた。また、他藩や上方からの米購入も図っている。定邦のこれらの飢餓対策は定信の助言によるものである(p29,30)。同年10月、定信は家督を相続し、藩主として藩政の建て直しを始めることとなる。近領の藩主でかねてから親交の厚かった本多忠籌から定信に宛てた当時の書状には白河藩の飢餓対策が奥羽において類を見ないほど適切であったと評判になっていること、飢餓民救済の政策に感銘したのでやり方を学びたいなどといった内容を書いて送っている。
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