白河院政とは? わかりやすく解説

白河院政

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 01:09 UTC 版)

院政」の記事における「白河院政」の解説

次の白河天皇の母も御堂流摂関家ではない閑院流出身中納言藤原公成の娘、春宮大夫藤原能信異母兄頼通とは反目していた)の養女である女御藤原茂子であったため、白河天皇は、御堂流嫡流摂関家藤原師実関白をに任じつつ後三条天皇同様に親政行った白河天皇応徳3年1086年)に当時8歳善仁皇子堀河天皇)へ譲位し太上天皇上皇となったが、幼帝後見するため白河院称して引き続き政務当たった一般的にはこれが院政始まりであるとされている。嘉承2年1107年)に堀河天皇没するとその皇子鳥羽天皇)が4歳即位し独自性見られ堀河天皇時代より白河上皇院政強化することに成功した白河上皇以後院政布いた上皇治天の君、すなわち事実上君主として君臨し天皇は「まるで東宮皇太子のようだと言われるようになった実際院政本格化すると皇太子立てることがなくなっている。 ただし、白河天皇当初からそのような院政体制意図していたわけではなく結果的にうなったともいえる。白河天皇の本来の意志は、皇位継承安定化、というより自分の子による皇位独占という意図があった。白河天皇御堂流藤原能信養女藤原茂子母親同じく御堂流関白藤原師実養女藤原賢子御堂流親密村上源氏中院流出身)を中宮としており、生前後三条天皇および反摂関家貴族にとっては、異母弟である実仁親王輔仁親王摂関家冷遇され三条源氏系譜)への譲位望まれていた。そうした中、白河天皇は、我が子である善仁親王皇位を譲ることで、これら弟の皇位継承断念させる意図があった。これは再び摂関家外戚とする事であり、むしろ摂関政治への回帰につながる行動であった佐々木宗雄研究によれば、『中右記』などにおける朝廷内での政策決定過程において、白河天皇がある時期まで突出して政策判断したことは少なく院政開始期に摂政であった師実と相談して政策遂行し堀河天皇成人後堀河天皇関白藤原師通協議して政策行って白河上皇相談行わないことすら珍しくなかったという。これは当時国政に関する情報天皇代理である摂関集中する仕組となっており、国政情報独占していた摂関政治力上皇のそれが上回るような状況発生しなかったと考えられている。だが、師通の働き盛り年齢での急逝若年政治経験乏し藤原忠実継承伴って摂関政治力低下国政情報独占崩壊もたらされ堀河天皇は若い忠実ではなく父親白河上皇相談相手求めざるを得なかった。更にその堀河天皇崩御して幼い鳥羽天皇即位したために結果的に白河上皇による権力集中成立したとする。一方樋口健太郎は白河法皇院政前提として藤原彰子上東門院)の存在があったと指摘する。彼女は我が子である後一条天皇太皇太后(後に女院)の立場から支え以後白河天皇まで5代天皇にわたり天皇家家長的な存在であった天皇代理であった摂政自己の任免天皇勅許で行うことができず(それを行うと結果的に摂政自身自己の進退判断する矛盾状態になる)、摂関家全盛期築いた道長頼通父子摂政任免も彼女の令旨などの体裁実施されていた。師実は自己の権威づけのために自己の摂関任免について道長先例倣って父院である白河上皇関与求め天皇在位中の協調関係もあって上皇行幸公卿動員し院御所造営諸国所課実施するなどその権限強化協力してきた。また、白河上皇院庁人事を師実に一任するなど、師実を国政主導者として認め政策を採ってきた。ところが、皮肉にも通・師実の相次ぐ急死によって遺されたのは、師実が強化した白河上皇法皇)の権威上東門院先例根拠とした白河上皇法皇)による摂関任命人事への関与実績であり、結果的に藤原忠実摂政任命はじめとする治天の君」による摂関任命正当化することになってしまった。 直系相続による皇位継承継承男子が必ずしも確保できるではなく、常に皇統断絶の不安がつきまとう逆に多く皇子並立していても皇位継承紛争絶えないこととなる。院政の下では、「治天の君」が次代次々代の天皇指名できたので、比較安定した皇位継承実現でき、皇位継承に「治天の君」の意向反映させることも可能であったまた、外戚関係媒介摂政関白として政務にあたる摂関政治異なって院政直接的な父権に基づくものであったため、専制的な統治を可能としていた。院政布く上皇は、自己の政務機関として院庁設置し院宣院庁下文などの命令文書を発給した従来学説では院庁において実際政務が執られたとされていたが、鈴木茂男が当時院庁発給文書国政に関する内容認められないことを主張し橋本義彦がこれを受けて院庁政治論痛烈に批判したため近年では、非公式私文書としての側面のある院宣用いて朝廷圧力をかけ、院独自の側近を院の近臣として太政官内に送り込むことによって事実上指揮を執ったとする見解が有力となっている。これら院の近臣上皇との個別主従関係により出世し権勢強めたまた、上皇独自の軍事組織として北面武士を置くなど、平氏を主とした武士勢力登用図ったため、平氏権力成長促した。そのため、白河上皇による院政開始をもって中世起点とする事もある。 平安後期以降院政定着した背景として、岡野友彦皇學館大学教授)は財政面理由指摘している。公地公民制実態として崩壊したこの時期であっても法制上は律令国家の長である天皇荘園私有できなかった。このため寄進によって皇室となった荘園上皇所有管理し国家財政支えたという見解である。 ただし、院政登場摂政関白必要性否定するものではなかったことに注意要する。院(上皇法皇)の内裏への立ち入りできない慣例依然として維持されている中で、摂関天皇身近にあってこれ補佐すると共に天皇と院をつなぐ連絡役としての役割担った。そして、長い院政歴史の間には白河法皇藤原忠実のように院が若い摂関補佐する状況だけではなく反対に摂関が若い院を補佐する場面もあり、院と摂関ひいては天皇家摂関家王権構成する相互補完的な関係であり続けたのである

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