二条天皇の六波羅行幸とは? わかりやすく解説

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二条天皇の六波羅行幸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 02:39 UTC 版)

平治の乱」の記事における「二条天皇の六波羅行幸」の解説

清盛は、熊野詣に赴く途中紀伊国京都異変知った動転した清盛九州落ち延びることも考えるが、紀伊武士湯浅宗重熊野別当湛快協力により、17日帰京する帰京までに、伊藤景綱・館貞保などの伊賀伊勢郎等合流した一方義朝クーデターのため隠密裏少人数軍勢集めた過ぎず合戦想定していなかった。京都軍事バランス大きく変化し信頼優位揺らぐことになる。信西親しかった内大臣三条公教信頼専横憤り抱き清盛説得するとともに二条親政派の経宗・惟方に接触図った二条親政にすれば信西打倒果たしたことにより、信頼後白河院政派用済みとなっていた。公教と惟方により二条天皇の六波羅行幸の計画練られ藤原尹明信西従兄弟・惟方の義兄弟)が密命帯びて内裏参入する25日早朝清盛信頼名簿提出して恭順の意を示し、婿に迎えていた信親送り返した信頼清盛味方についたことを喜ぶが、義朝信親警護していた清盛郎等難波経房・館貞保・平盛信・伊藤景綱)が「一人当千」の武者であることから危惧抱いたという(『古事談』、ただし同書18日こととする)。 25日夜、惟方が後白河のもとを訪れて二条天皇脱出計画知らせると、後白河はすぐに仁和寺脱出した日付変わって26日丑刻(午前2時)、二条天皇内裏出て清盛の邸である六波羅へと移動する藤原成頼(惟方の弟)がこれを触れて回ったことで、公卿諸大夫続々六波羅集結する。信頼提携関係にあった摂関家の忠通・基実父子も参入したことで、清盛一気官軍としての体裁を整える至り信頼義朝追討宣旨下された26日早朝天皇上皇脱出知った後白河院政派激しく動揺し義朝信頼を「日本第一不覚人」と罵倒したという。信頼・成親は義朝とともに武装して出陣するが、源師仲保身のため三種の神器一つである内侍所神鏡)を持ち出して逃亡した

※この「二条天皇の六波羅行幸」の解説は、「平治の乱」の解説の一部です。
「二条天皇の六波羅行幸」を含む「平治の乱」の記事については、「平治の乱」の概要を参照ください。

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