二条家の邸宅・北朝天皇の「践祚の儀」の場所として
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以後、二条家代々の邸宅となり、摂関を5度務めた二条良基の拠点もここに置かれていた。良基が17歳であった建武3年8月15日(1336年9月20日)、建武政権を崩壊させた足利尊氏の工作によって持明院統の光厳上皇及び弟の豊仁親王(後の光明天皇)が押小路烏丸殿に入り、光厳上皇の御所とされた泉殿にて親王の元服が行われ、そのまま上皇の猶子として寝殿において践祚の儀が執り行われた。ここに北朝が成立することとなり、これを吉例として次の崇光天皇の践祚もここで行われた。時代が下って、応安元年/正平23年閏6月13日(1368年7月28日)に雷雨の押小路烏丸殿の池から白龍が昇天するのを目撃したという話があり、これを聞いた中巌円月がこの池を「龍躍池」と命名したという。二条殿の庭園の姿は『おもひままの日記』に活写されており、島が点々と浮かぶ池や高さ五尺ほどの滝があったことが知られる。
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