二条家の邸宅・北朝天皇の「践祚の儀」の場所としてとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 二条家の邸宅・北朝天皇の「践祚の儀」の場所としての意味・解説 

二条家の邸宅・北朝天皇の「践祚の儀」の場所として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 09:56 UTC 版)

押小路烏丸殿」の記事における「二条家の邸宅・北朝天皇の「践祚の儀」の場所として」の解説

以後二条家代々邸宅となり、摂関5度務めた二条良基拠点もここに置かれていた。良基17歳であった建武3年8月15日1336年9月20日)、建武政権崩壊させた足利尊氏工作によって持明院統光厳上皇及び弟の豊仁親王(後の光明天皇)が押小路烏丸殿入り光厳上皇御所とされた泉殿にて親王元服が行われ、そのまま上皇猶子として寝殿において践祚の儀が執り行われた。ここに北朝成立することとなり、これを吉例として次の崇光天皇践祚もここで行われた時代下って応安元年/正平23年6月13日1368年7月28日)に雷雨押小路烏丸殿の池から白龍昇天するのを目撃したという話があり、これを聞いた中巌円月がこの池を「龍躍池」と命名したという。二条殿庭園の姿は『おもひままの日記』に活写されており、島が点々と浮かぶ池や高さ五尺ほどの滝があったことが知られる

※この「二条家の邸宅・北朝天皇の「践祚の儀」の場所として」の解説は、「押小路烏丸殿」の解説の一部です。
「二条家の邸宅・北朝天皇の「践祚の儀」の場所として」を含む「押小路烏丸殿」の記事については、「押小路烏丸殿」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「二条家の邸宅・北朝天皇の「践祚の儀」の場所として」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「二条家の邸宅・北朝天皇の「践祚の儀」の場所として」の関連用語

二条家の邸宅・北朝天皇の「践祚の儀」の場所としてのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



二条家の邸宅・北朝天皇の「践祚の儀」の場所としてのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの押小路烏丸殿 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS